曇天をみるか、晴天をみるか
お仕事が変わって、外へ出ることが多くなった。
今までのお仕事は施設の中で過ごすことが多かったから、日の光1つとっても、新鮮なものである。
1日の中で光の差しかたが全然違う。
陽光は、ある時はやわらかく、ある時はまぶしく、ある時はぼんやりとしていておもしろい。そして、案外お天気に人間は左右されやすいもんだ。植物だって同じだ。みんな生き物だ。
ぼくらはみんな生きている。生きているからうれしいんだ
手のひらを太陽にすかしてみれば
まっかに流れるぼくの血潮
日の光を感じると、生きてること、生かされていることをあらためて実感する。
私は大体、仕事中の3分の1位は車を運転している。利用者さんのおうちに向かうためだ。
信号待ちの間、ふと空を眺める。
今日のお天気は
こっちを見れば曇天
こっちを見れば晴天
という塩梅で、ちょうど空は2つにはっきりとわかれていた。
例えば、今日のこのお天気を見て人はどう思うのだろうか。
「今日は曇り空でがっかりしちゃうよ」という人と
「今日はお天気で気持ちいいね」という人とに分かれるかもしれない。
この時私は「今日はお天気だな」となるべく思いたい。
先日ちょこんとりすさんの記事を読ませて頂いた。
この記事は静寂の灯りの中で、彼女がたんたんと1日の良いことを振り返っている内容だ。この静かな時間を大事にしたいと綴られている。
私はこの記事に大変好感を抱いた。
そして例えつらいことや失敗したことがあっても、それをいつまでも引きずらずに自分にとっての「良いこと」について穏やかに目を向けられるようにありたいと思った。
だからこの場合は、太陽が差し込んでいる良い面を捉えていきたい。
もう少し考えてみる。
半分残っているジュースが目の前にある。
これを「半分しか残っていない」とがっかりする人と
「半分も残っている」と喜ぶ人
花が枯れてしまい
「もう楽しめない」と捨ててしまう人と
「ドライフラワーでもきれいだし、実がなるかもしれない」と期待を寄せる人
捉え方は自分次第だ。
私はなるべく晴天を見て感じたいと思う。希望がもてる部分を見つめたい。
でも、時には、どうしても曇天が自然と目に入りやすく、曇天の方が体になじむような日もあると思う。
そういう日はきっと自分の余力がなかったり、ちょっと落ち込んでいたり、意外と疲労感がたまっていたり、意識に上がらないもやもやを抱えているのかもしれない。
そんな日は「今日はそんなことが気になるような体調なんだな」と自身の不調を敢えて自覚し、必要以上に頑張りすぎないとか、ひっそりと過ごしてみたりだとか、面倒なことは明日にやり過ごしてもいいかもしれないなと思う。
そんな風に無理せず過ごしていきたい、なんて日々思っている。
事業所からの帰宅途中の渋滞の車の窓に、斜陽が差しかかる。
衰えていく光は、また違う美しさがある。
刹那的でもそのほんの一瞬の光を捉えたい。
光を感じた自分を、その光のコントラストを混ぜてしまうのではなく、そのあるがままで大事に包みこみたいと願っている。
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