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呪いのことばを私は言わない

私は昔から「自分が大好きなもの」を素直に人に言えないところがある。

人の好きな物の話を聞くのは大歓迎で、そういう場面をおのずと待ち望んでいるような気がする。あまり自分と関わりがなかったものならなおさら良い。相手の好きな物を私が好きじゃなくても全然かまわない。話している人が自分の好きな物を語る時の、嬉しそうな表情や体温の高さ、変態や狂気の一歩手前のようなその人にしか理解できないこだわりを「うんうん」と聞いているのが嬉しい。

その時間は、自分が見えなかった世界や景色まで、その人が連れていってくれるような旅している気分になれる。新しい空気が入って、自分に無い色が少し混ざって、話のあとはほんの少しだけいつもと違う自分になれる気がする。

でも、自分がそれをするのは嫌なのだ。

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思いおこすと、小さい頃は自分の好きなものもきちんと意志表示できていたと思う。

でも、それを告白すると

「えーなんであんなの好きなの?」

「私はそれ大嫌い」

「だってあれってさ、〇〇じゃん。」

みたいなことを言ってくる人が必ずどんな場面でも一定数いた。

私はそのことばがすごく怖い
不意に言われると身がすくんでしまう。

だって私の生活は「好きなもの」に支えられているからだ。「好きなもの」を励みにして毎日生きている。その「好きなもの」を否定してくるということは「私の存在」が否定されているんだ・・・と思ってしまう。
相手がそういう風に思っていないこと、完全に被害妄想的であることは頭ではわかっている。そういう思考回路になる自分が悪いのだ。
けれども私にとってはそれらは「呪いのことば」だ。言われたあとはいつまでも頭がもやもやとしており、責めるべき対象がないこの気持ちと自分自身が折り合いをつけるしかないのである。

だから、自分を守る防護策として、私は常にこう思う事にした。
「私の好きなものたちは、他のみんなは嫌いで当然なんだ。」
「私の好きなものなんかみんな関心がないし、こんなこと話しても迷惑なだけだ」
これで、何を言われても大丈夫。予想していたことを言われる方が自分が受けるダメージは少ないと思った。しかし・・それでも心は傷つくのだ。

だから人に好きなものを聞かれると、私は何と言っていいのか一瞬たじろいでしまう。

私の思いを正直に話して、またあの「呪いのことば」を言われるのが嫌だから、わざとそれほど大好きでもないものの名前を挙げてしまう。

そういう癖が思春期から成人までずっと続いていた。

でも、今の夫は、そんな私の癖を、出会った頃に取っ払ってくれた。

***

当時の彼(今の夫)とまだおつきあいをしていない時に、学校のグループ活動の班が一緒になった。他のメンバーはあまりやる気がない人が多かったので、夫と2人で課題を調べてまとめようとしていた。

途中で休憩がてら雑談をしていた時に、私の好きなミュージシャンが今度映画に出ること、その映画は単館系の映画であったので、東京まで行かないと見に行けないことを、何だか知らないけどスッと自然に彼に話せてしまった。

彼は私の話をちゃんと聞いてくれた。
そして「見に行かないの?」と聞いてくれた。

私は場所が東京なので、1人で見に行くことが不安だし、おっくうな感じもするので、いずれレンタルできる時に見ればいいと思っている消極的な雰囲気の気持ちを伝えた。

しかし、彼は「じゃあ一緒に見に行こうよ。」と提案してくれた。

そして実際自分が好きでもないミュージシャンが出る映画に一緒に東京までついてきてくれた。

そして見ている最中に私がとても嬉しそうな表情をしていたことを、同じような嬉しそうな表情で伝えてくれた。

私はこの時の気持ちは未だに忘れられない。
久しぶりに自然と素直に好きなものを表現することができて、そしてそれを受け止めてくれる人がいて私はとても嬉しかった。

また、彼は自分の好きなものの話をおかまいなしによくする人であった。
どんな性別でも、どんな年齢の相手でもかまわず、自分の好きなマニアックな話を嬉しそうにする。その話はマニアックでよくわからないけどおもしろいし、その姿にとても勇気をもらった。

***

私は自分がされて嫌なことは人にはなるべくしたくないと思っている。

「呪いのことば」で自分と同じように傷つく人がもしかしてこの広い世の中にはいるかもしれないから、今日も楽しく人の話を聞いていたい。

そして自分が夫にしてもらったように、その人の好きなことを後押しできたり見守れる人になりたいと常日頃から思っているのだ。

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