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2011.3.11のあの日

6分前の14時40分。
そのあたりから気づいたら会議は始まっていた。

会議のメンバーは、これから退院を控えた患者さん、ケアマネージャー、ソーシャルワーカー、看護師、リハ担当のPT、そしてリハ担当のOTである私。
ソーシャルワーカー主体で話が進行していた。

私たち病院スタッフは、今までの入院生活の様子を各コメディカルの目線から伝え、そしてそこから患者さんの退院後の生活を皆で話し合う。

話し合いの場は患者さんの病室。8人部屋の多床室で患者さんのベットを囲むように私たちは向かいあっていた。

と、その時。

ぐらぐらぐらと体が揺れた。

「大きいですかね」とPTの後輩が言い終わるかいなかという頃合いで、横に大きくぐらぐらぐらと揺れは一層強さを増した。


私は会議をしている場合ではないと思った。


しかし、目の前のソーシャルワーカーは平然とした顔をして、変わらず会議をしていた。

彼女は私と同い年で、まだこの病院に入職したばかりの職員だった。黒髪で素朴な印象を受け、話し言葉のイントネーションの違いから、この辺りの地域の出身ではないことをなんとなくにおわせていた。

私はなるべく彼女が病院になじんでもらえるといいなと思っていた。彼女がまわりから悪い印象を持たれていても、私は私なりにあまり否定せず接しようと思っていた。


思ってはいたのだが。


ぐらぐらと揺れる病室。
不安そうな患者さんたち。
病棟のテレビを急いでつける看護師。

そして、表情を変えずに会議を続けるソーシャルワーカー。

その光景はあまりにも現実から離れていて、私は一種の気持ち悪さを覚えた。


この状況はおかしい!


「会議はやめて患者さんの安全を確認しませんか?」

私が口火をきった。すると、まわりのスタッフも同じ思いであったのか、瞬時にパッと離れ、患者さんに声をかけはじめた。

残されたソーシャルワーカーは表情を変えずに私を見つめていた。私は彼女の奇妙な空気に引き摺られながらも、病室から出て、師長を探し出す。

当日は、病院長と事務長が不在だった。(事務長は当時、私の父だった)

タイミングが悪すぎる。

私は父がいないことに若干イラつく。指示が仰げない。


『ひとまず師長に相談を』と思い、彼女を探す。そして、事務長の補佐をしている事務員が病棟に上がってきた。

「どうしましょう?」

これ以上揺れが強くなるようであったらまずいので、患者さんを避難させることを検討し始める。移動できる方はいいのだが、自力での移動が厳しい人はどうするか。職員がかつぐのか。2階から避難用シューターで1人ずつ流すか。

私は自分のお腹に手を当てる。私のお腹には2番目の子が存在していることが先日判明していた。

私はかつげないと思った。

なぜなら私は1人目のあとの子を流産していたからだ。もう2度と同じ経験はしたくない。

悩んでいる間も状況は進む。2階の病棟から移動できる人は動きを始めていた。私は自分が担当していた高齢女性の階段を下りる動作を手伝った。彼女は「階段の練習をリハビリでしておいて良かった」と私に笑顔で話しかける。私は彼女の普段と変わらない笑顔に心なしか肩の力が抜け少しほっとする。

1階に移動すると、待合室の大きな水槽が揺れて水がちゃぽちゃぽと音を立てて溢れていた。床がまたたくまに水浸しになる。近くにいた外来患者さんが、以前入院中に担当していた方で、声をかけて安全な場所へ避難してもらう。お礼を言われる。

玄関に出て、みんなが座れるように椅子を配置する。

そこからは記憶が曖昧だが、しばらく揺れる病院を見つめていたように思う。

私は保育園にいる娘の事を思い浮かべる。今頃怖がっていないだろうか。

上司から許可が出て、業務時間内だが娘を迎えに行けることになった。

私は駆け足で車に乗り、我が子を預けている保育園へと向かう。

保育士さんが入口に立っていた。娘は不安な表情をのぞかせた。

「ちょうど揺れが起きたのがお昼寝の時間だったんですよ。だからみんなに布団の中で待機して大人しくしてねって言って、結構みんなパニックにならずにいられました。お母さんも今日は早く来られたんですね。お疲れ様でした。」

私は時短勤務であったがお迎えは一番遅くなることも多かったので、保育士さんは迎えに来たことに安心した表情を見せていた。


私は娘を勤務先の病院に連れて行き、そこで残りの業務を済ませ、帰宅した。


夫からその間連絡が入る。


夫は当時、東京の大学病院に勤めていた。通勤は千葉と東京を繋ぐ大きな橋を渡って通っていた。


当然ながらその橋は渡ることはできない状況であったので、夫から「今夜は帰れないので、病院に泊まることになる。」と連絡を受けていた。


夫が不在で不安も大きかったが、ひとまず娘と帰路につく。

余震はその間何度も訪れる。
娘が私にぎゅっと抱きつく。
私は娘の頭をなでる。


自宅につくと、妹から連絡が入った。

「おばあちゃんがなんだか動けないみたいだから来て欲しい」

私と私の実家の住まいは近かったため、娘を連れて実家に行くことにした。

実家の一階には祖母と妹がいた。


私の両親はその日、他県に出かけていた。おそらく夫と同様、自宅には帰れないだろうと私は予測していた。


妹はこれから自分はアルバイトに行かなければ行けない、祖母は気づいたらこの椅子から動けなくなっていたので、どうしたらよいか困っていたと話した。

妹を送り出し、祖母に今までの経過を聴取する。

「おむかいの〇〇さんのところに行って立ち話をしてたら地震があって、そのままよろよろと倒れてしまって、歩けなくなっちゃった。ここまではなんとかおむかいさんが一緒に運んでくれたの。」

この時の祖母はかなり冷静でうちの娘に対しての笑顔も見られた。
私は祖母の話から、おそらく股関節の骨か骨盤の骨が骨折していると思っていた。そんな状況であるのに、あまり動揺を見せない祖母の姿に、あらためて祖母の強さを感じていた。

私は携帯電話で救急車を要請しようとしたが、携帯電話は通話が混み合っていてかけることができなかった。(時間にしたら19時前後で、おそらく全国的に通話が混み合っていたと思う)


私は携帯電話をあきらめて、実家の近くの公園の公衆電話を目指して、娘と歩いた。


余震でぐらぐらと地面が揺れる。

あたりは暗くなっていて、市のサイレンが鳴り響いていた。

娘は「こわい、こわいよママ」と私に抱きついた。


私は娘を抱っこしながら公衆電話に向かった。


この時の風景が私はいまだに忘れられない。


祖母はどうなるんだろう。

夫と両親はいつ帰ってこられるのだろうか。

東北の方たちはこれからどうなるのだろう。

津波の被害はどれくらいなんだろう....。

公園を目前にした芝生の上でゆっくりと歩く私と娘の姿は、その時の不安な感情と共に、私の中で割と鮮明に再生することができるのだ。


私はまず、公衆電話で救急車を要請した。

そこで状況を説明し、祖母を病院へ運ぶ手筈を整えることができた。

そのあと、私は両親に電話をかけた。


両親は思った通り、車が渋滞しているので、今夜は帰れないという話であった。


私は祖母が転倒し、おそらくどこかの骨を痛めているので、入院になるのではないか、救急車で今から病院に向かうことを伝えた。両親は私に感謝を述べた。


私は電話を終えて、実家に戻り祖母に救急車を依頼できたことを伝え、救急隊員が来るのを待った。

到着した救急隊員に状況を伝え、私も自分の車で病院に向かうことにした。

入院することが予測されたので祖母の入院に必要そうなものを持って、病院に向かう。

病院と義理の実家は近い距離だったため、途中で義理の実家に寄り、娘を少しの間見てもらうよう頼んだ。


病院では見知った看護師さんが多く「おばあちゃんはちゃんと見るから大丈夫だよ。」と言われ、私はそこでやっと肩の力を少しだけ抜くことができた。

レントゲンの結果、大腿骨の骨が折れていることがわかり、近々手術をすることとなった。私は看護師さんに祖母を託して娘を迎えに行き、自宅へ戻った。

夜は娘と2人で過ごした。娘は夫が帰ってこないことを心配していた。


翌る日の朝。


私は1人でニュースの映像を見て、その場から動けなくなってしまった。


津波で流された駅舎。

駅舎とアナウンスされていたが


何もないのだ。


駅舎も
線路も
建物も
何もかも

あたり一面は茶色の地面だけ。


私は9.11を思い出した。


これは映画ではない。現実だ。


私はこれから何が起きるのか


日本がどうなっていくのか。


あの日の自分からもう12年。


私はあの日に起きたことを忘れない、と思う。


わたしたちは何を語ろうとしても「震災のあった人生」以外を選ぶことができないこと。そしてまた、皆これから先に「震災のようななにか」が待ち受けているかもしれない人生を生きるしかないことを思った。
氷柱の声より






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