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私の中のいろいろな人

河合隼雄さんと鷲田清一さんの「臨床とことば」という本を再読している。

昔読んだ本だが、秩序だって読むわけではなく、家事などの隙間時間でちょこちょこ気になった章だけ読んでいる。

今読んでみると、以前は気にもとめなかった文章にひっかかったり立ち止まったりして面白い。本というのは読む年齢や環境や心境で、印象がだいぶ違うものである。見過ごしていた宝物を探し当てたみたいでこういうのはなんだかちょっと嬉しい。

ちなみに私はこのnoteでことばということばを
「ことば」
となぜかずっと平仮名で表記している。(意図せずややこしい文章になってしまった)

これには、特に理由はない。
気づいたらこの表記から崩せなくなってしまった。(引用する文章などは準じて「言葉」と書いている)
「言葉」と漢字で書くと、なんだか靴下を裏返しに履いているみたいな、ちょっとした違和感を感じる。

なんだろう。そういう自分なりのルールはいくつかある。変なこだわりだ。

なぜ、こんな事を書いているかというと、この本のタイトルも「臨床とことば」という平仮名表記だったから、不意に「マイnoteルール」を思い出したのだ。

余談はここまでにして、ここから今日の本題。
以下、本から一部抜粋する。

河合:僕の考えでは、一人の人間は自分の中に老若男女ほぼすべてを持っている。可能性としても、皆持っている。けれども、その中の「あなたはこれを」「あなたはこれを」というふうにちゃんと決めてもらうと、社会の秩序はきれいに成立するでしょう?昔はそっちのほうの観点が強かったから、だから皆箱に入れられていったわけですよね。「あなたは大人です」と。その大人に入れる方策がうまかったわけですよね。実際にイニシエーションの儀式があり、こうこうこうですと。そうすると、昔は子どもからいったん大人になると子どもには戻れない。
鷲田:あっ、逆に..…。
河合:もうなれない。決められているわけだから。だから男になった人は、もう女になれないわけですね。女になった人は男になれない。しかも、そのときに「男らしいとは何か。女らしいとは何か」というのは全部規定されているわけです。だから、一人ひとりの人間をちゃんちゃんとかたちをつけて、それを組み合わせて社会の秩序というのを構成していたんですね。それが昔の方法でした。今はそれをやめよう、と。個人というのは、すごい可能性を持っているから、できるかぎり生かそうではないか….高校生でも年老いたやつがおるし、七〇歳でも若々しいやつもおるし….。そういう意味では、僕はすごく面白くなったと思います。ものすごく面白くなったということは、それによる大混乱が生じるということを知っていないとね。
鷲田:そうなんです。その面白さがわかる手前はかなり悲惨なことというか、苦しいですよね。

臨床とことばより

この「箱に入れていく」というのは以前書いた記事(それこそ記念すべき私が初めてnoteに投稿した記事)にも似たような話がでてきた。

この時は磯野真穂さんが「容れ物」の話をしていた。
「箱」でも「容れ物」でもきっと意味合いはそんなに大きく変わらないと思う。

昔は「大人」は「大人」「子供」は「子供」、「男」は「男」「女」は「女」の箱にみんな入れられていたし、そういうものだと思いながら生きてきた人も多かったのではないだろうか。

けれども今は河合さんいわく「それはやめよう」ということになっている。「個人というのは、すごい可能性を持っているから、できる限りいかそうではないか。」と書いてある。

私はこの文章を読んでかなり気持ちがすっきりした。そしてこの意見には賛成である。

なぜかというと、一般的に「マイノリティ」と呼ばれる社会や役割から逸脱しがちな人たちが生きやすくなると思うからだ。

私自身に照らし合わせてみると、私は女性だが「一般的にイメージされるような男性らしい」部分も持っているし、大人だが「子供」のような部分も持っている。

ある時は「お年寄り」みたいな時だってある。「先生」みたいな時もあるし「生徒」みたいな時もある。

一人の中にグラデーションがあって、その時その時で出てくる部分が違う。それははっきりとしてなくて、例えば場面によっては女性70%男性30%みたいな時もあるし、逆だってある。
何が女性的で何が男性的かと問われると、かっちりとした定義みたいなものはまた難しい問題になってしまうのだが、この場合は何となくのイメージで想像して欲しい。

一人の人間は自分の中に老若男女ほぼすべてを持っている

そう考えていた方が、暴力的なラベリングをしてしまうことへの予防の一助になるかもしれない。

サムネイルのお祭りの水風船のように「今日は赤」「今日は青」「今日は緑」みたいな感じで、自分の今日や今は何色が出ているのか、よく観察してみてもおもしろいと思うし、相手の事を一つの色で決めつけず、今日は何色が強いかなんて探し出してみても、相手の新たな魅力に気づけるかもしれない。

すごい女子力の高いかわいらしい女の子が大型トラックを運転できたりとか、筋骨隆々の男性の趣味が編み物だったりすることもする。

そんなのって面白いし、そういう方がなんだか「人間らしいなぁ」とも思う。

河合隼雄さんと鷲田清一さんは、このあと「自由になった分、今混乱期が生じていて、決められた箱に入れないと、この世に何も決定的なものがない分、重荷がずどんと来てしまっている。学生さんなんかは、それでしんどくなったり無気力になったりする」と話している。

決められた箱に入っている方が生きやすい人がいるのも事実ではある、と思う

やっぱりどうしたって、それがいまだに大多数の意見であったりもするし、私たちは多かれ少なかれいわゆる「普通」に引っ張られがちだ。

でも、その普通に当てはめて生活できない人もいることを頭の片隅に置いておくだけで、「エンパシー」いわゆる想像力みたいなものをお互いに持つことができたら、もっともっとやさしい世の中になれるのかな、なんて妄想している。

今日はそんなお話でした。

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