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声をあげること

これは舵星さんという私が親しくさせてもらっているnoterさんへのお手紙みたいなものです。

私は舵星さんをずっと「かじさん」と呼んでいますのでここでもかじさんとさせて下さい。

かじさんのこの記事をとにかく多くの人に読んでほしいなぁと今は思っています。

看取りのお話なので、彼女自身も書かれていますが、もしそのようなものを見聞きするのが辛い方は無理に読む必要はないのです。

それでも…もし、関心があったり興味がある方や、死について、コロナについて…考えたい方はぜひ読んで頂きたいのです。

それが叶えば私の願いは達成されているので、ここで終わりにしてもいいのですが(え?)

そうはいかないぜよ!

という訳で、少しばかり書いてみます。


そもそもかじさんのお仕事は「地球防衛軍」だと信じて疑わない私は(え?)

(素直なんです)

かじさんは実は....私にとってもとても身近な存在であるお仕事に携わっていることは、風の噂でなんとなく存じており

そのことを私も本人に言うでもなく、ただただお互いの芸術的な絵や漫画や笑いを酒のつまみにして(私は下戸なので飲んでませんが)

楽しんでひゃーはーしておりました。

ひゃーはー!

けれども、あの例の.....約一年前のある場所で、ぼたんさんと言うnoterさんに出会った時にかじさんの口から「看護師なんだよ」ということばを聞いて....少し驚くぼたんさんの横で


ああ、そうだよね。


と思っておりました。


私はぼたんさんがバス停でみんなを見送ってくれたあと。

バス席の隣に座るかじさんと話した内容やかじさんの横顔が忘れられないのです。


「私たちはそういう話を聞いていかなくちゃいけないんだなーって思う。そうやってね、話してくれることはすごいことなんだよ。あの人はすごい人なんだよ。」
と話していました。

今、この文章を読んでくれている方はなんのことやら.....だと思いますが、その時話していたのはある他のnoterさんのことで、彼女はご自身のお子さんが病気やアレルギーで数々の治療や医療に関わる経験をしていて、そこで得たものやそこで得た悔しさや憤ること、今だから思うことなど......いつもまっすぐに届けてくれていた方なのです。

私はかじさんがどのような思いで生きていらっしゃるのか、普段見せているヨパライキャラクターの裏側のヒリヒリとしたものや彼女の熱を、その時少しばかり感じていたように思います。

私は今回のかじさんの記事を拝読して、最近読んだこの本のことを思い出していました。

著者の木村映里さんは、東京都内の民間病院に勤務する8年目の看護師さんです。

(前作の「医療の外れで」も私は記事で取り上げたことがあります。)

一般急性期病棟とCOVID-19専用病棟が併設している病院で働く彼女は、この本で自身が体験した医療と差別を主軸のテーマとして、丁寧で生々しい文章を綴っています。私はその描写にあらためて驚くこともあり、学ぶこともあり、考えさせられることも多かったのです。

彼女が巻き込まれていく医療職への差別、彼女自身の感染、疲弊していく現場、管理側や国や東京都からの無理な体制の要求、次々と亡くなったり、重症化する患者さんたち、そしてそれを取り巻く家族たち。

お孫さんが感染し、感染が家庭内で広がって、重症化してしまった子供や、80代の患者さんが入院してきたご家族にまつわる物語。

本著の中で、患者さん自身が軽症であっても重症化のリスクがゼロではない以上、病院として急変時に対する対応をご家族に確認するときに、重症化して呼吸器をつけているお子さんに本来意思決定の確認をとるべきであるものの、そのような状況では当然ないため、若いお孫さんに確認することになったというエピソードがあります。

我々医療従事者は、自宅で40度近い熱を出しているお孫さんに「あなたのお婆様に何かあった時、どうしますか?」と電話で訊かなければなりませんでした。
20代の若年で、親は重症で、且つ自分も熱で苦しんでいる状況で、そんなことを訊かれて冷静で居られる人間など、いるはずがないのです。
「祖母は死にそうなんですか」「自分のせいで親も祖母も死ぬんですか」「どうしたらいいのか分からない」すすり泣きながらそう話す、自分よりも少し歳下の声を聞くと、やるせない気持ちと申し訳ない気持ちが綯い交ぜになり、鳩尾のあたりに重く溜まりました。
著書より抜粋

コロナがもたらしたもの。
患者さんも家族も医療者もそれぞれの悲痛な思い、別れ、悲しみ、混乱、怒りが日々の生活の中で織りなされていたことを私はこの本であらためて痛切に感じました。それは、私からは直接的には見えない景色ですが、今もどこかでそのような事は起こっているのです。

そして、今ある現状から、また何ができるかということを我々は考えていかなければなりません。

かじさんの記事を読ませてもらって、医療側の中での小さな分断も感じました。そして、看取りの際に愛する人に会えない、会わせてあげられない医療システムだけでなく自分自身に対しても向けられている憤りを感じました。そこには彼女の慈悲が根幹に存在しているのだと思います。

ルールや規定というのは大切なものだと思います。一度取り決めたガイドラインを変えることはなかなか難しいことも知っています。

けれども私たちがより良く生きていくためには、今あるものをきちんと捉える力、そしてそれを今の状態に合わせたものへ進化・深化させることが必要です。

まず、声をあげること。

私の中で体の背骨のような.....軸となっている考えです。

かじさんが声をあげてくれたこと。

その前にもたくさんの声をあげてくれている人たち。(先程の話に出てきたかすみさんのようなnoterさんもそうです)

いろいろな立場がフラットに意見を言える事。

私は今、このnoteでそのようなやりとりをさせてもらっている事を非常に感謝しています。それはコメントをくださる方はもちろんですが、読んで頂けただけで……それぞれがぞれぞれの立場で残る思いや疑問があるのであれば、充分であると思っております。

かじさんが今回珍しくコメント欄を開けてくれたこと。「自分自身が話したかったのかな」という気持ちをうけて、思わず書いていましました。

勝手に書いちゃって.....許してねーかじさん。

あと、また一緒に馬鹿な事もやらせてください(笑)

私もまた得意の妄想癖で頭をぐるぐるとまわしておきます。

秋の晴天の日のくまこより。

かしこ。




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