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ラボルトさんとこうならなければならないの話

このサムネイル画像は「ラボルト像」です。

この「ラボルトさん」はこの像の方がラボルトという名前ではないのですって。

パリ・ルーブル美術館収蔵 紀元前438~433年頃制作。古代ギリシャ神話の虹の神イリスの彫像。数少ない、オリジナルのパルテノン神殿の破風彫刻の一部。 ”ラボルトの頭部”と呼ばれることもありますが、これは19世紀中頃にフランスのレオン・ド・ラボルト伯爵が、この頭部をパルテノン神殿に帰属するものと分析したことに由来します。

amazonのラボルト像の紹介文より

パルテノン神殿の上部の柱から見つかった彫像を、分析した方が「ラボルトさん」という事なので、そう考えると名付けの仕方が「星」とか「昆虫」とか「地層」とかに、なんだか似てますね。

もう一体「メディチさん」という、割とややイケメンの石膏像があったのですが、先生の班分けにより私の木炭デッサンの課題になったのはラボルトさんの方でした。

そんな訳で、土日の大学のスクーリングがあったので、昨日はnoteをお休みしてしまいました。
コメントやサポートなど頂いている方、すみません。順次お返しさせてもらいます。

このラボルトさんを描いた絵を自宅に帰ってきてさっそく夫に見せたのです。
そしたら「(うちの会社の)○○さんに似てない?」って言われました。

○○さんの顔を思い出してみる。

確かに似ているかもしれない.....!

「もし今日会ったら笑っちゃいそうだな」と思いながら出勤したのですが、幸いにして、その方は本日お休みでした。


あーよかった。


さて、前置きはここまでにして

前回の記事で好きなことを増やすといいことがあるよ〜みたいな記事を書きました。

それで、ありがたいことにコメントをたくさん頂きました。
私はその中でも興味深いコメントがあり、この2日間、その事を思い出して考えていました。


好きなことへの執着の話。

好きなことを続けると「もっとこうならなければならない」が増えてくることがあると思うのです。

そして「こうならなければならない」が続くと本来あった好きという気持ちが徐々に違う形や質感に変容してしまうのかもしれません。

例えば
・好きなことをやっていてもうまくならない。
・好きなことをやっていても自分が思ったようにならない。
・好きなことによって得られるものが目的、あるいは義務化してつらくなってしまう。
・好きな対象物が思うようにならない。
・好きなもの自身がというか対象としているものが時間と共に変化してしまった。

ある程度の技術が必要なもの、たとえばスポーツとか、手工芸とか、園芸とか(ほとんどのものがそうですね)は、どうしても同じように好きなことをやっている周りの人と比べる機会があるかと思います。

私の場合、今回デッサンに取り組んだわけですが、デッサンについては、本当に生まれたてのひよこみたいなレベルなので

(生まれたての「熊」とか言うと、あんまりフレッシュな感じがしないので、どう書くか悩みますよね)

赤ちゃんのツキノワグマ、悩みはなさそう

今回も「ここにいる人、みんな私よりうまいじゃん」と、他の生徒さんの絵を見て感動したり、素敵だなと思ったりしていました。

もしかして、すすめていくうちに、このような気持ちが強くなり「嫉妬心」みたいなものが生まれたりすることもあるかもしれません。

(私はもともとあんまりそういうものがない方なのですが、それも良し悪しですね)

前回も書いたように好きなものを進めていくと、外部との交流は増えてきます。(ただし、修行するように、世捨て人のように一人で山奥にこもったりして外部の情報を一切遮断する人は別かもしれません)

好きなものに向き合い、様々な刺激を受ける。この過程の中では、他者との交流を遮断することが難しいような印象もあります。

ここで思ったのですが
執着というのは「これをコントロールしたい」といった気持ちに繋がるのかなと何となく思いました。

要するに、この「好きなもの」を自分の思い通りにできるという感覚。

自分が好きなものをうまく扱える感覚
好きなものを自分の良いように動かせる感覚


これは好きなものがある程度上達してきたら、大なり小なり誰でも感じることだと思います。

プロフェッショナルの道にすすむ中で、通り抜けるトンネルみたいなもの。

一方で

先程例えとして出てきた、一人で山にこもって修行している人や山籠り生活の方は、自然を相手にしているイメージがあります。

自然というものは雄大でどこか怖さがある。

その怖さというものはままならなさだと思うのです。

もしかしたら命すら取られてしまうかもしれない程の圧倒的な力。

自然に対しては、私たちはコントロールする事ができません。

だから、今、この現代社会の中で、自然物に触れる機会は子供を含めて必要だと私は思っています。

少し話が脱線しましたが

今回話したのは

好きなものへの執着は、必ず誰でも生まれる可能性があること。
徐々に好きなものそのものをコントロールできるという気持ちが湧いて、けれども、思う通りにならないような時。

そんな時は執着が生じているのかもしれません。

好きなものへの距離感が近すぎて、執着や固執が悪い方向へ向かっている時は

少しそのものから離れられるなら離れてもいいよかなと思います。

離れている時間は、自分が停滞している訳ではなく、その人にとって必ず必要な大切な時期。

そんな気もしています。

こうならなければならないを手放す。

なかなか難しいとは思いますが、乗り越えるための一つのコツのような気もしています。


読んで頂きありがとうございました。

気持ちをいったりきたりさせる中で、皆様の好きなことへの活動が、今後も続けられることを私も願っています。

私もラボルトさん以外にも、デッサンに頑張って取り組んでいきたいです。

サポートは読んでくれただけで充分です。あなたの資源はぜひ他のことにお使い下さい。それでもいただけるのであれば、私も他の方に渡していきたいです。