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【創作】Dance 8

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第8話 待ち時間~潤とカノン〜


僕はカノンを

ずっと聴き続けている


潤はそう言って静かにゆっくりと目を閉じた。


春には梅や桜。
初夏にはぼたんやかきつばた。
藤やつつじ。池に浮かぶは蓮の姿。
秋はコスモス、彼岸花。

自宅の窓の外は「日本庭園」と検索すればサンプル画像に出てくるような模範的な景色がいつもそこにあった。花たちはその来るべき時期が来ると、誰に教えられたわけでもないのに、それぞれが芽吹いて、重なり合って、そして各々が見事にバランスと調和を保っていた。その調和と均衡は雇っていた庭師の丁寧な技術の結晶であった。

少し前から潤は両親の不仲を肌で感じていた。

それは5歳の冬。

母親は裕福な家庭で育った。母親の父、つまり潤の祖父は有名な企業の取締役であった。母は音楽を自身の生業としていた。音大を出た後に、小さな子のためのピアノ講師と、ライブハウスやジャズクラブでピアノを弾くことを続けていた。そこで潤の夫と出会った。ひとめぼれだった。夫は一緒にライブでセッションした仲間であった。彼はベース弾きであった。母親と違って彼はお金に困窮しながらその日々をなんとか生きていた。

父は毎日帰りが遅かった。

潤がベッドに入る前に帰ってくることはめったになかった。夜中にトイレに起きると、ひたひたと足音が聞こえることがあり、それはたまたま同じタイミングで自宅に帰ってきた父親であった。潤は不意に父親に抱きしめられた。

抱きしめる腕はぎゅっと力強くなる。

父親は茶色いシングルコートにグレーのマフラーを巻いていた。質のいいカシミアの毛糸の感触が首元にせまってきて鈍い熱を感じる。

廊下は電気もついておらずあたりは広くシンとしている。

「お前はいつも自分が一番正しいみたいな顔してるな、このくそがきが」

「おれを責めたいなら責めればいい、何にもしらねーくせに」

「お前のこと愛してんだよ、なぁ。聞いてんのか」

耳元でささやかれる低音。アルコールとたばこのにおい。

潤はクリスマスが近い事を思いだしていた。

先日母親がきれいなクリスマスリースを購入し、潤に薔薇のような笑顔を見せてくれたことを思い浮かべた。潤は母親の笑顔が好きだった。

イイコにしてたらサンタさんがくるのかな

潤は父親にそのことを一瞬言おうかどうか迷ったが、お腹の底からのぼってきた希望のカケラのような何かを奥底にぐっと押し戻して再び飲み込んだ。


赤い星のモニュメントが、大きなクリスマスツリーの上できらきらと天井のシャンデリアの光を反射して光る。
ベツレヘムの星。
キリストの誕生を知らせたトップスター。

クリスマス当日。

赤と白の縞模様の杖の形をしたキャンディケイン。
赤と緑と銀と金色のガラスボール。
白いほわほわした毛糸が縁についた赤色の靴下。
金色と銀色の小さなベル。

全てが色とりどりに飾り付けられていた。そして食卓には豪勢な料理が用意されていた。潤の小さい頃からまわりには音があふれており、それは母親のピアノの音や、父親のベースやギターの音、そして両親が大切にしていたレコードの音でもあった。

その日
室内は
カノンが
流れていた。

父親は、帰ってくると告げた時間を大幅に超えて帰宅した。

テーブルにはハイライトとウイスキーグラスが置いてあった。両親が会話を続けている時間、潤はウイスキーグラスをただひたすら見つめ続けていた。そして自身の手の甲をつねって、はなして、つねって、はなして、その行為をやめることができなかった。痛みをあえて感じていたかった。

水は少しずつ少しずつコップにそそがれていて
それは表面張力によって
ぎりぎりのラインを
なんとかこぼれないようにと
保っていたが

母親の器はこの日、限界に達した。

父親には恋人がいた。
母親はもちろん...潤にさえもわかっていたことだ。

たばことアルコールと……甘い香水の匂い。


父親はカノンが流れていたあの寒いクリスマスに潤の家を出て
それ以来戻ってくることはなかった。

潤は窓の外を覗いた。

いつも見える花たちの姿は見えず
濃く深い暗闇がただそこにあった。
そして
小さく瞬く赤い星が
自分を照らしていた。



「しっかし、長いもんやな。こんなにたくさんの人が集まってて、ここにミサイルでも落とされたら一発アウトやな、ふわぁ...」

星一はあくびをしながら話し始めた潤と顔を見合わせた。
「ここにはそんな大事な要人が来ていないから大丈夫」と星一は返した。

結月は自身が手にしているスマホをのぞき込んで「さっきより待ち時間増えてるね」とつぶやいた。60分待ちが気づけば80分待ちになっていた。自分たちの前方には犬のキャラクターのカチューシャをつけて学生服を着たカップルが楽しそうにキャラメルポップコーンを分け合っている。

3人は遊園地にいた。

先日遊園地のチケットを姉から譲り受けた星一は、潤、結月の2人と行くことにした。


星一は遊園地に自ら出かけるタイプではなかった。しかし、以前結月がダンスを始めたきっかけとして、幼い頃にここの遊園地でショーで踊っているダンサーを見て志したという話を聞いていたので、普段のお礼の気持ちで今回誘ってみたのだ。

『恋人ではないのだから』

星一は結月が変に思わないように配慮をした。2人で遊園地に出かけるというのは、なんとなくハードルが高いように思えた。なので、さっそく潤の予定を確認した。
「ええよ、僕はあそこのポップコーンが好きだからせいちゃんがおごってくれれば」
という条件付きだったが、潤は参加自体を快く引き受けてくれた。
結月は誘った時に少し考え込んでいる様子も見られたが、2、3日後に参加可能の返事をもらうことができた。

3人は遊園地でアトラクションに乗るために長蛇の列に並んでいる。ここのアトラクションは待ち時間が長いことで有名だった。土日は1時間待ちもざらにある。待っている間は、星一が潤に購入したポップコーンを皆で食べながら、待ち時間中飽きないよう、思いついた様々な話をお互いにしあっていた。

待機中の施設内にカノンが流れていたことから、潤の話が始まった。


「はじめて潤の父親の話を聞いたな」

星一は自分の口にキャラメルポップコーンを2、3粒入れ込み、潤にポップコーンの容器を渡しながら、自身のスマホの画面を確認した。結月の言うとおり確かに待ち時間は先ほどより増えていた。結月は潤のことをじっと見つめながら辿々しく口を開いた。

「潤さんは...お父さんのことを今はどう思っていますか?」

「どうって...どうなんやろうなぁ。まあ、僕は祖父がお金がある人だったからそれでも何不自由なく今も母親と暮らしてるし。何ってのは、正直よくわからんね」

「ただ、僕はアルコールやたばこの匂いを嗅ぐと、あの時の父のカシミアのマフラーの感触を思い出す。これは僕にかかっている一種の『呪い』みたいなものなんやろうなぁ」

彼がカノンを聴くのは

決まって電車の中だ。


改札口を通り過ぎて、人混みの流れに乗ってBluetoothの白いイヤホンをバッグから取り出して落とさぬように耳元に慎重に入れ込む。階段を降りながらホームへ向かう途中で携帯電話の画面を開いて、音楽アプリのサブスクを選択する。階段を降りて10m歩いてキオスクを通り過ぎて3番線、5両目の入り口に立つ。

パッヘルベルのカノン。

正式名称は3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調。

電車の中にはサラリーマンやOL、親子連れ、高齢者、学生がそれぞれ今日も決まった場所に運ばれる。潤は電車の端の席の乗車口付近の手すりによりかかり、過ぎていく街を眺める。

空、雲、太陽、ビル、家、自転車、犬、畑、コンビニ、踏切、人、バスがあらわれて消えて、またあらわれて消える。
うつりゆくものたち。

優雅なカノンと風景が
遠くなってあるいは近くなって
距離感が掴みにくくなってきた時に
全てはかたまりのように思える。

人々は肉の塊であり
あるいは電車は鉄の塊であり
みんな何かの塊であって細胞や物質の集合体だ。

潤はカノンを聴きながら
いつも満員電車の中で
世界の不幸と破滅を願うと共に
幸せと永遠を願っている。

やわらかな手をはなされたらどうしたらいいのだろう。大事なものに去られた気持ちはどこにむかえばいいのだろう。何度も繰り返しなぞって巡り会えて、切望する気持ちはどこかに埋めてしまった方がいいのだろうか。抱かれたぬくもりさえ忘れてしまったほうがいいのか。

僕にとっては
重くても
誰かにとっては
軽いのだ。

それはまるで羽のように。

その軽さを感じた時、僕は何度も悲しみを抱く。

もう2度と手に入らないぬくもりを想う時に、お前はいつも自分が一番正しいみたいな顔してるな、という父親の声が耳鳴りのように響く。

僕はどんな顔をしているのだろう。
僕が自覚し得ない正しさは
誰かを傷つけているのだろうか。
よく知りもしない僕は、いまだに
何も知ることはできない。

イイコにしててもサンタは来ない。

ただひとつだけ
世界に望むなら。

僕をひとりにしないで。

忘れるよりも抱えた痛みを感じながら
潤は夢の続きをカノンと共に過ごしている。


潤はカノンをどんな場面で毎日聴いていることを2人に話すか一瞬悩んだが、話すことはやめた。



列はゆっくりと歩みを進める。
遊園地はまだ始まったばかりで
待ち時間はあと30分ある。
それは長い1日のはじまりでもあった。



9話へつづく



挿し絵協力:ぷんさん

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