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自分の胸に手を当てて考えろ

 大学にいると就活について嫌でも考えさせられることがある。大学から就活の案内が届いたり、先に卒業する友人たちが内定をもらっていたりすると、「いや〜〜〜俺も考えなきゃなあ」の気持ちになる。あまり真面目に考えたことはないが。そういう関係でたまに聞くワードとして、「自分らしさ」「個性を活かせる仕事」というのがある。仕事に自分らしさも活かす個性もクソもないだろうと思う。金を貰うわけだから相手に合わせなければならない。なぜ自分に合わせるのか。意味がわからない。ぶつくさ文句を言いながら少し考えてみる。自分らしさや個性というのは、一体なんなんだろう。

自分は“らしさ”なのか

 初めに言っておくと、僕は「自分らしさ」という言葉が嫌いだ。なぜ嫌いなのか。
 人間は、特徴を言語化してそれをもとに分類する。それがらしさの根本だ。例えば人間関係だ。「大学の友達」や「バイト先の先輩」と言う。一口に大学の友達と言ったって人それぞれ色々な関係性があると思う。仲の良さの濃淡もあるだろうし、少し変わった関係の人もいると思う。そしてそのような個々の事情や関係性を捨て去り、「大学の友達」と表現する。別にそれが悪いという話ではない。円滑なコミュニケーションのためには必要だ。ただそれが言語を解する人間の特徴だという話だ。
 もう一つ「らしさ」の例をあげよう。飼い主の言うことをよく聞く猫がいるとする。飼い主や周りの人はきっとその猫をこう言うだろう。「猫らしくないな」と。その「猫らしさ」は外野(ここでは人間)が勝手に決めたことだろう。自由で勝手気ままなのを猫の特徴としてそれ以外の猫を猫らしくないもの(もしくは猫ではないもの)として分類する。別にこの事例自体も悪いわけではない。
 ではそれを自分に向けるのはどうだろうか。自分を言語化、「らしさ化」するあまり、自分には見えていない色々な可能性を捨て去ってしまうのではないか、無意識に分類しているのではないだろうか。そのような気がしてならない。
 もっと言えば、猫の事例でもそうであったがそもそも「らしさ」というのは自分で見つけるものではなく、他者を形容する時に使う言葉である。人間誰しも自分のことはよく見えないものだ。だから道徳や神様仏様にすがって自分の姿を見てもらってきた。孔子ですら五十になってようやく自らの天命を知ったのに、二十そこそこの若者が自分自身を省みて分析できるだろうか、いやできない。そのような姿勢は知性に驕りを感じるから嫌いだ。自分らしさとかどうでもいいから素直にお前の心に問いかけろ
 

こせー?なんすかこせーって。

 個性ってなんだろうか。たとえば僕は普通の人だ。オリジナリティがあるわけでもない。普通に産まれて普通に生きているだけだ。大抵の人間がそうだろう。まさか産まれてすぐに歩き出して天上天下唯我独尊とかほざいた奴などいるまい。「いや!僕は普通に産まれてないです!」「私の生き方は普通じゃない!」とか言う人がいるなら名乗り出てほしい。そういうイキリ方をしているのがそもそも“普通”のイキリ坊主だから(笑)
 人の世は大抵の人のムーブを織り込み済みで動いている。だからそんな中で個性などありもしないものを後生大事にしていたって仕方ないだろうと思う。

大事なことはバランス

 意味もないのに自分のらしさだの個性だのを分析するくらいなら、「人の話を聞けるようになる」とか「人に親切にする」とか、そういう周りの人のためにできることを磨いた方がいいと思う。そして就活の面接の時に自信を持って、「僕は他の人に対して親切に接することができるように努力しました。」と言える方がよっぽど魅力的だし、社会にとっても有用だ。大事なことは自分と他者のバランスなのだろうとつくづく思う。

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