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祖父自慢

 僕は高知にある母方の実家で生まれたが、育ったのは主に東京の父方の実家である。父方の実家は昔から続く病院だ。病院と言っても大学病院のような大きな病院ではない、町の診療所である。今は叔母が継いでいるが、その前は脳神経外科の祖父が院長だった。今日はその祖父の話をしようと思う。

 祖父は勉強家で、実家の大きな本棚は歴史と医学の本で埋まっていた。幼い頃はその本がなんなのかもわからなかったが、今ではそれが知性の山であることがよく分かる。祖父はまだ幼い僕に色々な話をしてくれた。よく彼は地図を僕に見せて

「ここにあるマケドニアという国は今は小さいけど、昔はとっても大きかったんだよ。遠い昔、アレキサンドロス大王という王様がいてね。」

「この鞍馬には天狗さんがいてね、牛若丸を鍛えたんだよ。牛若丸はその後弁慶を従えてね。」

といった具合に歴史の話をしてくれていた。そのおかげで源義経やアレキサンドロス大王は、幼い僕にとって桃太郎のような身近な人物だった。

 祖父は倹約家でもあった。病院は堅実な無借金経営で、車は往診用の国産車一台だけ。彼が何かを買っている姿を僕はほとんど見たことがなかったし、服も僕が幼い頃から死ぬまでずっと同じものを着ていたと思う。趣味はワインとジャズ、あとはラグビー観戦だった。だがそれに多額のお金を使うこともなく、月に2回程度ラグビーを観に行き、ワインも地元の酒屋さんが定期的に届けてくれるワインを大事に大事に飲むような、そんな人だった。

 勤勉で倹約家。怠惰で浪費家の僕とは正反対の、立派な人である。親族の誰もが一目置いていた。

 祖父が院長だった頃、うちの病院は日曜日と水曜日が休診日だった。祖父にとって日曜日は休日だったが水曜日はそうではなかった。
 祖父の父、僕から見ると曽祖父にあたる人もまた医者であった。彼は東京のうちの病院とは別に、伊豆の熱川にも病院を持っていた。それは戦時中に軍医として満州に赴く前に開いていた病院で、曽祖父が他界してからは毎週水曜日に祖父が開いていた。
 毎週夜明け前に起きて、一人で踊り子に乗って伊豆に向かう。看護師さんが一人もいない病院を自分で開け、多くの患者さんを診て、自分で病院を閉めて、22時ごろに帰宅していた。
 幼い頃、僕は伊豆に行く祖父が心配だった。子供の僕からしたら手もしわしわで耳が少し遠い立派なおじいちゃんである。そんな祖父が毎週わざわざ遠い伊豆まで行って病院を開く理由が分からなかった。そこで一度言ったことがある。

「なんでおじいちゃんはいつも伊豆に行くの。病院ならここにもあるよ。大変だからやめたほうがいいよ。」

 僕は祖父と手を繋いで散歩している時に、そう訴えた。だが祖父は優しい口調で教えてくれた。

「あの病院はね、週に一回でも開いてないと困る患者さん達がいっぱいいるんだよ。だから行くんだよ。」

 祖父は今からちょうど3年前、79歳で咽頭癌でその生涯を終えた。癌に蝕まれる体に鞭を打ち、75歳まで毎週欠かさず一人で伊豆に通い病院を開き、死の半年前まで実家の病院で院長として臨床していた。

 今MEDLEYで閉院した伊豆の病院を調べると、学会認定専門医の欄に脳神経外科専門医が1人と表示されている。地域医療のために鞭を打った祖父の足跡が、そこにはあった。

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