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 諦念

 こんにちは、熊谷です。まとめようかなと思います。まとまり切る気がしませんが、そしたらまあまた気が向いたら追加で書いたりもします。

大衆に触れて

 2019年4月19日に池袋で交通事故が起きた。87歳の男性が運転する自動車が母娘2人を含む9人を轢いたあの有名な事故だ。高齢者の自動車運転による事故が社会問題として議論され始めた時期だったこともあり、この事故はメディアによってよく報道された。 

 結局、加害者の男性は逮捕されなかった。それは当然で、逮捕は要件(逃亡の恐れ、証拠隠滅の恐れがある場合)を満たさなければ行うことができない。事故現場での加害者男性は緊急搬送が必要な重体であり、逮捕の要件は満たさない。彼は後に在宅起訴され、現在裁判の最中である。今のところ法律上不自然な点はどこも見当たらない。

 しかし世論はこれに納得しなかった。加害者男性が元々経産省官僚だったことから、「警察が経産省に忖度して、逮捕しなかった」などとバッシングし始め、「上級国民」というありもしない階級を表す造語が流行り、ネット上には加害者男性を「死刑にしろ」「上級国民はコロせ」などという激しい言葉が溢れかえる。加害者男性の家族は特定され、メディアは遺族への同情を誘い、加害者男性への憎悪を積極的に煽った。

 ここに、「大衆」が完成する。かつては日比谷公園に集っていた人々が、21世紀にはネット上に現出した。一人のただの事故を起こしてしまった人を世論は許さなかった。

 法律上何も不自然な点は無い。だが裏付けも根拠も持ち合わせないただのヘイトが日々ネットやメディアから発露された。この時僕は、日本近代史のある出来事を思い出した。日比谷焼き討ち事件関東大震災朝鮮人虐殺事件である。デマや憎悪に駆られた大衆が人々に危害を加える事件だ。
 
 僕は第二次世界大戦に突入した日本の近代史において最も罪深いのは「大衆」だと思っている。彼らは憲政を無視して日比谷公園に集い、挙句の果てに軍を迎合し、開戦を主張してきた。その姿はまさしく「近代的市民」ではなく「大衆」である。それによって完成される政治システムはポピュリズムに他ならない。

 この時の大衆と全く同じものに、21世紀に入って遭遇するとは思わなかった。法を信頼せず、理性を持たず、感情に支配された大衆に触れ、僕はこの国における「近代」を諦めた。

 

近代が市民に要求するもの

 近代は多くのものを我々市民に要求する。常に理性的であり、イノベーションに依る資本主義の進歩に順応し、あらゆる政治問題に対してある程度の見解を示す事ができる、など。近代が我々に要求するものは、主権者(=王)たる身の振り方である。それも当然だ、この社会の行く末を決めるのが王ではなく我々になったのだから。
 では実態はどうか。法でも理性でもなく感情をむき出しにして、国家権力による拘束、極刑を望む「大衆」がいるだけではないか。我々は21世紀に入りより複雑でより高度な社会を迎えている。近代が要求する身の振り方の水準も上がっている。にも関わらず、大衆のレベル(勿論自戒も含め)は戦前から変わっていない。

赤子に包丁を持たせる理由が、分からなくなってしまった。

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