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国体・障スポ陸上に審判として参加して

今年、栃木県のスポーツ界は大いに沸き立ちました。

 第77回国民体育大会「いちご一会とちぎ国体」、そして第22回全国障害者スポーツ大会「いちご一会とちぎ大会」が開催され、もちろん陸上界も大いに盛り上がりました。色々なトラブルはあったものの、滞りなく進められた2つの大会ですが、私も審判として参加してきました。

 先程アップした半年間の雑多な振り返りとは分けて、国体は国体の振り返りとして大会を振り返ろうと思います。

①国体に審判として参加


 さて、10月1日から10月11日まで開催されていた国民体育大会。陸上競技は10月6日から10月10日までの会期でした。行けるなら陸上の会期の初日から行きたかったのですが、仕事の都合がつかず、後半3日間の参加となりました。

 まず、私自身、正直年度初めの頃は「ああ、国体があんのか。全国大会を栃木でやんだよなぁ」程度の、割とサバサバした感じでした。興味が無いとかではなく、栃木で大きな大会をやるという実感が湧かなかったのです。そしてそれは、当日会場に行くまでそんな感じでした。

 ところがいざ会場に行ってみると、会場となったカンセキスタジアムとちぎが豪華なことこの上なく、いつものスタジアムではなかったのです。メインスタンドに設けられた天皇陛下がお出ましになる貴賓席、周囲に掲げられた「JAAF」の横断幕とスポンサー企業の看板、更には見た事のない計測機器などの精密機械たち。おおよそここがいつものカンスタなのか?と思うほどの会場になっていました。こういう景色を目の当たりにすると、審判と言えども燃えます。一気に国体に参加してる感が高まり、「ついに国体なんだ!」という気分になりました。

 国体期間中の審判の役目としてはマーシャルを行いました。マーシャルとは、いわゆる「場内司令」のこと。場内の安全と秩序の維持のため、競技場内における完全な統制権を持ち、総務員と共に場内の競技進行や選手管理についての指示統制を行うものとされています。スターターや跳躍・投擲審判というような目につきやすい仕事ではないですが、選手の安全を守りながら競技を運営していく上では、とても大切な役割です。

 このマーシャル、普段の県の大会ではせいぜい2人から3人が相場なのですが、国体ともなると話は別で、なんと最大18名もの審判がマーシャルの役目に就いていました。余談になりますが、この役職の中に私の母校の國學院大學の駅伝応援の会の重役の方がいらっしゃって、大学卒業以来の再開となりました。世の中は広いようで狭いんですね。

 マーシャルとしての仕事は滞りなく行えて、応援で駆けつけてくれた高校生補助員の子たちの力も借りて、大きなトラブルなく競技を進行できたのではないかと思います。初めて一緒にマーシャルをやった先生方と知り合いになれて、これで次何かの大会に行くときも、知っている人が増えたのでやりやすくなると思います。知り合いが増えるというのは良いですね。

 国体を「見る側」として振り返ると、一番衝撃的だったのは少年男子B3000m決勝で高1歴代3位の記録が出たことと日本中学新記録が出る瞬間を目の前で見られたことです。あれは衝撃的でした。しかもそのレースをトラック内で見られたというのは、審判をしていなかったら絶対にできない事です。声を出して応援したい気持ちはありましたが、審判業務に当たっている以上はそんなことはできないので我慢しましたが、許されるなら応援したかったです。まあ、間近で見られただけでも良しとしましょう。普通なら絶対経験できないので。
 あとは、田中希実さんの800mに廣中璃梨佳さんの5000m、更に女子やり投げの北口榛花さんの日本記録まであと32cmに迫るビッグスローも目の前で見られて、「トップアスリートってすげえんだな」というのを感じた大会でした。

②障スポも審判として参加


 全国障害者スポーツ大会「いちご一会とちぎ大会」は、10月29日から10月31日までの会期で行われて、私はやはり仕事の都合で10月29日、30日の2日間だけの参加でした。

 障害者陸上は今までに審判経験が無く、他の審判の先生方も初めてのことが多く、実を言うと手探りの状態での審判でした。何せ健常者の大会と異なり、色々な部分で配慮が必要になることが多く、普段障スポになじみがない我々では細かいところまで把握しきれなかったので、選手には迷惑をかけてしまった部分は多かったかなと思います。

 障スポも役目はマーシャル。国体の時と同じような顔ぶれで行いましたが、国体の時ほど審判数が多くないというところで苦労はありました。
 障スポの陸上は、障害の性質というか、分類により部門が細かく分かれており、またそのグループ分けの中でも更に細かくグループ分けがされているので、種目数が多くなってしまうのです。それ故に少ない審判で競技進行を行う場合、休憩時間が短くなってしまい、正直きつかったです。私だけでなく他の先生方も同じで、みんながきついと言っていました。

 さて、そんな障スポですが、これはこれで見ごたえがあり、障害特性や種類に応じた工夫がなされており、面白かったです。障害があっても好きなことに打ち込める。これほど素晴らしいことはないと、審判をしながら思いました。

 業務中、とある選手の方から「皆さんのおかげで楽しく競技ができた。こんな大きな舞台で競技ができるのも審判がしっかりしているからこそ。楽しくいい思い出ができたし、栃木に来られてよかった。ありがとう」とのお言葉をいただきました。審判として、栃木県民として、これ以上の喜びはありません。こういう、世代や立場、住む場所を超えて人と人が繋がりあえる力がスポーツにはある。そんなことを感じられた瞬間でした。

③2大会を経験して思うこと


 さて、国体と障スポの2つの大きな大会を経験しましたが、まずは審判資格を取得して半年しか経っていない中で、このような大きな大会を経験できたことは非常に良かったと思います。もう一年審判資格取得が遅れていたら、このような貴重な経験ができなかったわけですし。良いタイミングで審判になれたなと思いました。

 2つ目に思うのは、やはり全国規模の大会は全てが桁違いだなと思ったことです。もちろん、気が遠くなるような時間とカネをかけて業者に委託して作り上げる大会なので、当たり前と言えば当たり前なんですが、それを差し置いても全国からトップアスリートが集まり、全県の陸上審判有資格者が勢揃いし、一つの大会を作り上げるというのは、まさに圧巻の一言です。今後の私の活動にとっても大きな経験となるでしょう。

 3つ目は、支給ウエアに関してはちょっと残念でしたということです。国体は灰色のベストに灰色の帽子、障スポにあっては何の変哲もない真っ白の薄いジャンパー。。。
いやー、もう少しかっこいいやつ作れなかったんですかね…。事務局は赤色のかっこいいベスト着てるし、高校生たちはライトグリーンの鮮やかなベスト着てるし。何で競技運営の中心となるべき審判が冷遇されなきゃならんの?というのは、その場にいた全員が思っていました。もう少しかっこいいやつが良かったなぁ…笑

④まとめ


 以上色々なことを書き連ねてきましたが、ここに書けないくらい濃密な期間でした。ちなみに、今の「国民体育大会」はこれが最後です。来年は鹿児島で「燃ゆる感動かごしま国体」が開かれます。これは2020年にコロナ禍により中止になった鹿児島での第75回大会を振り替えて行うものですが、名称が「特別国民体育大会」となっており、ナンバリングがありません。また、本来なら次の国体からは、大会自体の名称が「国民スポーツ大会」となるので、この「いちご一会とちぎ国体」が、正式な国体としては最後の大会になるのです。そんな大会に巡り合えたことに感謝です。

 次に国体、いや、国民スポーツ大会が栃木に来るのは少なくとも40年から50年後になります。この記事を書いている私が今27歳なので、次の大会をやるときは67歳から77歳です。いい加減なクソジジイになってますね。もしかしたら審判をやってないかもしれません。はたまたこの世にはいないかもしれません。
でも、もし次に、私が元気なうちに栃木で大会を行うことになった時には、今年できなかったことを色々とやってみたいなと思います。

 改めて、大会期間中にお世話になった先生方には感謝申し上げるとともに、今後ともよろしくお願いいたします、と伝えたいと思います。

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