わかることはかわることである

コロナ禍の前になりますが、アメリカに住んでいる友人から「おもしろいよ」と見せられたニュースアプリがありました。
 
そのアプリは共和党・民主党いずれかの立場から書かれたニュース記事が満遍なく掲載されていて、共和党寄りの記事を読むとヘッダーにあるバロメーターの赤(共和党のカラー)が増え、民主党寄りだと同党の色である青が増える仕組みになっていました。
 
友人は共和党支持者ですが「赤の記事ばかりではなく、バロメーターの赤青がほぼ同じ割合になるように読むことにしたところ、民主党寄りの記事に対しても少しずつ理解できるようになり、民主党支持者の考え方に以前ほど反発を覚えなくなった。何となくバランスの取れた考え方ができるようになった気がする」と言っていました。
 
アインシュタインは「自分と反対の意見を聞くことは心地良いものではない。それでも反対意見に積極的に耳を傾け、自らの考えと並立させて冷静に比較検討する。これを科学的態度と言う」と述べています。
 
人間社会の悲劇の大半は「自分は正しく、自分の意見に従えない他者は間違っている」という過剰な断定の結果として引き起こされています。
 
私は、知性とは知識量や頭の回転の速さではなく『自分は間違っているのではないか』と冷静に自らを振り返ることのできる能力だと思っています。
なぜなら、そういう態度によって自らが良い方向に「かわる」可能性があるからです。
 
自分と意見を異にする相手に耳を傾けて、相手の内在的論理を理解しようと努め、冷静に自らの意見と並立させて比べてみる。
そうすることで、見方を異にする「他者」を学びや気づきの契機にすることができ、結果として今までの自分とは異なる「ものの見方」を獲得できる可能性が生まれます。
 
異なる見方を「知る」だけではだめで、異なる見方に対して理解できる(=わかる)ことによってこそ「自らがかわる」可能性が出てくるわけです。
 
冒頭で挙げた友人も「自分と反対の意見にも冷静に向き合うようにしたことで、バランスの取れた考え方ができるようになった気がする」と言っていました。
自らが「かわった」のです。
 
自分にとって受け入れにくい意見に触れた時、もちろん拒絶することもできます。
多くの場合に人はそうしてしまうのですが、もしかするともう少し深く理解しようとする「=わかる」ことによって自分が「かわる」機会を永遠に失ってしまったのかも知れないのです。
 
企業における不正や不祥事はいつか必ずバレますし、バレたら想像を絶するダメージが生じ、時には企業そのものが存続できなくなることもあります(20年ほど前、雪印乳業は不祥事が連続したことで会社が消滅しました)。
 
誰もが「そんな事はわかっているよ」と言うでしょう。
でも、不正や不祥事が露見して苦闘する企業を毎年のように目にしているのに、不正や不祥事が相変わらずなくならないのは、多くの企業体質が「かわっていない」からです。
 
口で「わかっている」と言っても、自らをかえることができなければ、それは「わかった」ことにはならない。
 
「わかる」ことは「かわる」ことなのです。
 
 

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