してあげればよかった

1980年代の甲子園で、春夏合わせて優勝3回・準優勝2回の実績を残した徳島県立池田高校野球部の名監督・蔦文也氏は「試合前に子どもたちを鼓舞するときは漢語を使い、試合後にねぎらうときには大和ことばを使う」と言っておられたそうです。

確かに「乾坤一擲」や「奮闘努力」などの漢語は、試合前に聞くと身が引き締まるでしょうし、試合後は「よくやったね」といった大和ことばの方が心に響きそうです。

政治家や役人(多くの大企業トップも)は、不祥事の謝罪会見をする際には「遺憾でした」「忸怩たる想い」などの漢語を多用しますが、あまり心に響きませんよね。
「このような事態に至ったことは遺憾の極みであり、忸怩たる思いです」と言われるより「このようなことになったのは私の過ちです。本当に申し訳ありませんでした」の方が、よほどマシではないでしょうか。

ことばの感性研究分野で活躍する黒川伊保子さんは「生命・精神・感謝・天空・国家・希望という言葉と、いのち・こころ・ありがとう・そら・くに・のぞみ・・・比べてみると、漢語である前者はスケール感があってダイナミックだが何だか素っ気ない。対して(大和ことばである)後者からは、心にしみいるような温かな人間味が感じられる」と言っておられますが、同感です。

企業トップの方々は漢語(やカタカナ語)を頻繁に使う印象がありますが、大和ことばの方が相手の心深くまで伝わるので、企業イメージを体現するトップである以上、少なくとも謝罪会見などは大和ことばを使った方がいいのだろうと思います。

言葉というのは武器にもなれば致命傷を負わせる凶器にもなり得ます。

漢語・大和ことばの使い分けもそうですが、そもそも謝罪会見で漢語を連発する人は「心から申し訳なかった」と思っているのではなく、「メディア(不特定多数)が相手なのだし、何とかこの場をやり過ごせればいい」と考えて、漢語を多用してごまかしているようにしか見えません。

自らの言葉を通して「(謝罪を)受け取る相手」に寄り添おうなどという気持ちが全くないのでしょう。

言葉の受け手に寄り添うと言えば、以前こんな話を聞いたことがあります。

妻が夫にむっとする瞬間で圧倒的に多いのは、家事でミスをした時に責め言葉を投げかけられた時だそうです。

例えば
突然の夕立で洗濯物を濡らしてしまった時に「朝の天気予報で言ってただろう。テレビを見てたくせに何を聞いてたんだ」という一言や、朝起きてコーヒー豆が切れているのに気づいた夫からの「何で買い足しておかないんだ」といった言葉です。

思い当たる方が少なからずいるのではないでしょうか。

こんな時「天気予報を見た時に『今日は部屋干しがいいよ』と言ってあげれば良かった」とか「コーヒー豆が残り少ないことを伝えてあげればよかった」と声をかけてあげれば、場の空気は随分と変わりますよね。

相手に寄り添った言葉の出し方はビジネスの場でも大切です。

部下や出入り業者がミスをした時に「何をやってるんだ!」と怒る人は少なからずいます。
言われた側は恐縮しているのですが、よく観察してみると、恐縮しながらも不満そうな表情を浮かべている人が決して少なくありません。

ミスされて怒りたくなった時に頭ごなしに叱りつけるのではなく「自分も確認してあげれば良かったな」とか「もう少し丁寧に伝えてあげるべきだったね」といった言葉を届けてあげれば、相手は本当に素直な表情で「いえ、私の方こそ申し訳ありませんでした」と返してくれるはずです。

そもそも「自分も〇〇してあげればよかった」というのは、単なる慰めの言葉じゃないんです。
その件については自分も責任者の一人であることを表明することで、連帯する気持ちが伝わり、そこに信頼関係が生まれるのです。

そして、上司や先輩が「〇〇してあげればよかった」と言える職場では、必ずと言っていいほど、この言葉遣いが伝染していきます。

ぜひ試してほしいですね。

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