場を主宰する

先日、大学教授をしている知人に「教師にとって知識を教えることも重要だが、本当に大切なことは『学びへの意欲を起動させること』だと思う」と言われました。
「いかに優れた教師でも知識量には限りがあり、知識の森に自ら分け入っていこうとする自学自習にこそ学びの本質はある。学生に「学びへの意欲」が生まれれば、教師の仕事は半ば終わったようなものだ」と。

小学校の頃「昆虫にメチャクチャ詳しい奴」や「どんな草花でも見たら名前が分かる、ミニ牧野富太郎」がいました。
大人になってからは、オーディオになると溢れんばかりの蘊蓄が出てくる人や、ワインを語らせると時間を忘れて話し続ける人にも出会いました。

人は、本当に興味を持つといくらでものめりこむことができる能力を持っているのです。
「もっと詳しく知りたい」「もっと深い知識を身につけたい」とのめりこんでいく、これこそが「学びへの意欲」が起動した瞬間です。

ただし「学びへの意欲」が発動するきっかけは予測不能です。
全く同じモノを見たり聞いたりしても、「もっと知りたい」と強い興味を抱く人もいれば、関心を持たない人もいる。むしろ後者の方が多数派でしょう。
先の知人も「だからこそ、できるだけ多様な教育理念を持ち、多様な教え方をする、いろんなタイプの教師に出会えるようにしてあげること、さまざまな機会に触れられるようにしてあげることが重要だし、教師の側もシラバスに添った授業をするのではなく、学問への興味を掻き立てるにはどうすればいいかを試行錯誤することが大切だと思う」と言っていました。

仕事においても同様のことが言えるだろうと思います。
「この仕事をやりたい!」という意欲を起動させることができれば、人から指図されなくても自らどんどん積極的に仕事を推進していく力が湧き出てくるでしょう。

そういう意欲は上から「意欲を持って仕事に取り組め」などと指導されて発動される訳では決してありません。
勉強同様、人が仕事への意欲を発動するきっかけは千差万別で、こうすればいいという特効薬はありません。
思い切って仕事を任せ、トップが責任を取ってあげることがきっかけになることもあるでしょうし、自己申告での異動や業務ローテーション・素晴らしい顧客との出会いが仕事への意欲の発動につながることもある。

ただ、上意下達が徹底された風土から仕事への意欲が発動されることは、おそらくないだろうと思いますし、査定や評価、報連相といったものからも離れたところにあるのではないでしょうか。

レナード・バーンスタインという作曲家は「もしも自分が、来年どういう曲を作るのか計画書を出せ、とか曲創りのプロセスを定期的に報告しろ、などと言われたら、作曲への意欲そのものをなくしてしまうだろう」と言っていました。

私たちは、小さい頃から学校では成績をつけられ、会社では勤務考課される。
ずっとそうやって「査定されることに慣れきって」育ってきました。

査定されることに慣れ過ぎていて、誰かが作問したことに「正解」を返して良い点をもらおうとする行為が勉強や仕事の中心になっている事が少なくありません。

でも、本当に重要なのは「自ら問いを立てる」ことのはずです。
「これをやりたい」「もっと深い知識を身につけたい」という想いを持つことは「自ら問いを立てる」ことであり、言い換えれば自ら「場を主宰する」ということです。

経営者・指導者の大きな仕事の一つは、一人でも多くのメンバーが自ら「場を主宰できる」風土・環境を創ってあげることでもあるのだろうと思います。

世に数多く存在するマネジメント論や360度評価云々に振り回されることなく、業績をしっかりと挙げながらも、自ら「これをやりたい」と仕事への意欲を起動するメンバー、言い換えれば「場を主宰できる」メンバーが一人でも多く出現するような環境・風土創り・・・言うは易く、実際には相当難しい課題ではありますが、これに取り組むことが経営者・指導者にとって真に大切なことなのではないかと思いますし、一人でも多くのメンバーがビジネスパーソンとして幸福になる道筋でもあるのだと思うのです。

「利益を挙げなければならない企業において、そんなのきれい事だ」と言われるのは理解できますし、その方がリアリスティックに聞こえるかも知れません。
でも理想論に対して「そんなの無理に決まっているだろう」と知った風な言葉を口にした瞬間に、その人は経営者として、と言うより人として進化するのを止めてしまったのと同じではないかと思うのです。

「業績をここまで挙げる」といった事業体としての目標だけでなく、人々が生きる場としての企業の在り方を模索することは決して小さくない意味を持っていると信じています。

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