モノサシというリスク

作家の司馬遼太郎氏は、第二次大戦中に戦車部隊の陸軍少尉として旧満州などに配属されていました。
司馬氏は機械に疎く、戦車の扱いには苦労したようで、自ら「決して優秀な軍人ではなかった」と回顧していますが、司馬氏と軍隊生活を共にした方によると「彼は戦車の扱いは下手だったが、いつも笑みを絶やさない明るい性格だったので仲間から好かれていた」そうです。

その司馬氏が後年、こんな話をされています。

「私の所属していた部隊に、配属前の訓練成績が悪い上に、およそ軍人というイメージから程遠い物静かな兵士がいました。 誰もが『こいつは戦闘になったら役に立たないだろう』と感じており、私もそうだろうなと思っていたのですが、部隊が窮地に陥った際に、皆が動揺する中で誰よりも冷静沈着かつ的確に行動していたのが彼でした。それを見た時『人を安易に評価してはダメだ』と強く思いましたね」

私たちは、学校では成績、企業では査定・・・小さい頃から大人になっても「評価」にさらされて生きています。

企業での評価は昇進昇格や報酬に関わるだけに、多くの企業で「正しい評価」をしようとさまざまな手法を採り入れています。
昨今は360度評価が人気を集めていますが、(昔のような)上司の評価だけでは偏りがあるという考え方に基づいているのでしょうし、正しく評価できる可能性が高いと考えられているのでしょう。

ただ、360度評価を含め全ての評価には「評価基準というモノサシ」があります。
査定評価するためには、評点をつける対象を規格化・定型化する必要がある訳です。

でも、そのモノサシは人を評価する上で本当に適切だと言えるのでしょうか。

走るのが得意な人とボールを正確に投げる人・泳ぎが上手な人・ダンスが得意な人・力自慢の人は、同じアスリートでも「誰が最も運動能力が高いか」を評価することは容易ではありません。

「走ることは全てのアスリートの基本だ」と無理やり100m走をさせて、その「タイムの優劣で評価する」とした場合、他の能力は正しく評価されず、走るのが得意な場合でも「短距離は苦手だが長距離は得意」というアスリートが不遇をかこつことになります。

そうかと言って「100m走と3000m走・ボール投げ・ブレイクダンス・100m競泳・1500m競泳・重量挙げの総合ポイントで評価する」となれば、結局は総花的なアスリートが評価されることになり、一芸に秀でたアスリートが評価されにくいのはもちろん、例えばボルダリングが得意な人は評価すらされないことになります。

そもそも評価というモノサシは、(直近か長期かに関わらず)過去の業績を評価査定するために過去の経験値を基に「こういう能力がビジネス遂行には必要だ(だった)」と決めたものであって、未来において必要な能力を測るモノサシではありません。

司馬氏の部隊に配属された物静かな兵士のように、いざという時に力を発揮できる人物や、これまで遭遇したことのない新しい環境下(例えばボルダリング能力が必要とされるような局面)で能力を発揮できる人物は埋もれてしまう可能性があるのです。

ChatGPTの導入で消滅する職業が出てくるかも知れないと言われているように、昨今のビジネス環境は短時日に激変することがあり、現時点で高く評価される能力が明日も必要だとは必ずしも言えません。

また、査定・評価は必然的に競争する風土を生むことにつながりますが、果たして競争は本当に組織を強くするのでしょうか。

少し考えてみたいのですが、そもそも、評価や査定・昇給・昇格など、企業における仕組みや決まりは何のためにあるのか。
少なくとも「人」に関わる仕組みや規則は、それがあることによって所属する人々が活き活きと創造的な仕事ができる環境を創るためにあるべきではないでしょうか。私はそう思っています。

「組織マネジメント」なんて言葉を口にする人がいますが、私の経験ではそういう人に限って評価・査定には熱心だが組織を活き活きさせることにそれほど注力しているようには見えない。
組織にとって最優先なのは「どうすれば組織のパフォーマンスが上がるか」であり、組織のパフォーマンスが上がるのは、メンバー全員が機嫌よくニコニコしていて、誰もが充分な裁量権を持ち、創意工夫が活かせてアイデアをどんどん実現できる、そんな組織のはずです。

誰かが新しい発見をしたら皆で共有する。互いに足を引っ張ることなく支え合っている集団が一番力強く、一番生産的だと思うのですが、そういう組織を創るにはどうすればいいかを徹底的に考えようとする姿勢を持つ人があまり見当たらない。
モノサシを創ることには熱心だが、組織を本当に生産的で創造力に溢れるものにしようと取り組んでいる人が少ないように思うのです。

日本が世界一という領域はいくつかありますが、漫画・アニメもその一つです。

でも、70年ほど前まで日本の漫画は全然世界水準ではなかったし、注目されてもいなかった。
ところが、戦後の1950年代中頃からすさまじい勢いでクオリティが上がり、70年頃には世界一と言われるようになり、以後半世紀以上に渡って世界一の座に君臨しています。

いったい戦後の15年ほどの間に何が起きたのか。
それは、若い才能がフロントランナーになって自由自在に活躍したからです。

1950年代半ばから60年代に日本の漫画を牽引したのは、20代後半だった手塚治虫を除けば、赤塚不二夫や石ノ森章太郎・藤子不二雄・ちばてつやなど10代後半から20歳そこそこの若者たちでした。
戦前・戦中は「漫画などとんでもない」と言われる時代でしたし、戦後少したって貸本漫画が爆発的にヒットした時に、若い才能(しかいなかった)が前面に出る環境が一気に到来したのです。
とんでもなく若い連中が、あの有名なトキワ荘に集まってワイワイガヤガヤ言いながら漫画の技法やアイデアを必死になって磨いていった。
漫画家達の回顧録を読むと、彼らには「誰が一番絵が上手いのか」とか「ストーリーを創る力が一番あるのは誰だ」といった序列にはほとんど関心がなく、誰かが開発した手法は皆で共有し、誰かの締め切りが迫ったら全員が集まって手伝っている。
もちろん互いの競争意識もあったはずですが、それ以上に協力し合い、皆で必死に能力を高め合っていった。
上意下達で、メンバーの中で相対的に高いスコアをとった人が評価され、評点が低い人は惨めな想いをする・・・そんな組織とは正反対の環境下で日本の漫画クオリティは磨き上げられ、世界に冠たるまでになったのです。

手塚治虫は「もし私が半年ごとに絵の描き方やストーリー展開について細かく査定評価されたら『創造しよう』という気持ちは萎えていただろう」と述べています。

いろんな評価・査定システムが提供され、多くの企業がそれを取り入れながら、日本の国力がどんどん衰微しているのは、もっと違う方向に組織創りを進めていかねばならないことに我々が気づいていないからではないでしょうか。

知人が関わっている会社に、査定の際に最後のコンマ数%部分をサイコロで決めている企業があります。

トップが「人間が決める評価なんてものは、サイコロで決めるのと大差ないかも知れない」という考え方に基づいてやっているそうで、コンマ数%なので金額的には大した額ではないそうですが、それでも周囲からは奇異の目で見られ、批判されることも多いそうです。

でも私はその考え方が必ずしも間違っているとは思えない。
どうしても査定・評価が必要な場面で「どれだけ公平な評価を心がけようとも、完璧に人を評価することは難しく、自分の評価は間違っている可能性がある」という謙虚な気持ちで臨む姿勢を持っているのだとすれば、むしろ真っ当ではないかとさえ思います。

本当に大切なことは、モノサシを磨くこと以上に、組織を活き活きとするためには何をやるべきで何を捨てるべきなのかを考え抜くことであり、工夫を重ねることだと思います。

司馬氏が挙げた物静かな(けれどもイザという時に力を発揮した)兵士のような才能を見落とすことなく、会社をトキワ荘にするにはどうすればいいか。

それはモノサシを優れたものにしようとする考え方とは、全く異なる次元にあるのではないでしょうか。


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