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記憶の片隅にはあるが「無かったこと」にしたあれこれ

新年あけましておめでとうございます。


昨年は、本noteの、独り言のような、
日常の一部を切り取った記事を
読んでくださりありがとうございました。


今年は更新頻度を落としますが、
気が向いたら更新していこうと思います。

ブログメルマガのほうをメインに更新していきます)



さて、年末年始、ぼーっと過ごしてして思ったこと。


僕らには、記憶の片隅にはあるが、
自分の中で「無かったこと」にしているあれこれがある。


心の底にグイッと押しやり、蓋をする。

いつしかそれは黒く染まり、もう下の方に沈殿している。


取り出すことは、しない。

たまにそれの存在に気づいても、
アルコールで誤魔化すかのように、誤魔化す。


例えば。

例えば、急に距離ができてしまった友人。


喧嘩したわけでもないし、嫌いになったわけでもない。


でもいつの間にか距離ができてしまい、
元旦、あけましておめでとうのメッセージを送り合うこともない。


お互い、SNSでは存在を確認している。

でもいいねやリプライを送り合うこともない。


きっと相手が、

「◯◯で困っている。誰か助けてください」

と投稿していても、
それを見て見ぬ振りをするだろう。

なんとも不思議な感覚である。

僕らはそういう状況の時、
自分にとって都合のいいように解釈する。

自分が傷つかないように。

そして、「まぁ、いいか」と隅っこに追いやる。

複雑に考えようとはしない。


それは確実にそこに在ったのだが、
傷つかないように、時おり無かったことにする。

そうすることで、自分を保っている。


今日、偶然にも、
10代後半くらいの頃に
1か月か2か月くらい付き合っていた人の
Twitterアカウントを発見した。

僕は当時のことを
「若気の至り」「黒歴史」だと思っていて、
記憶の隅に追いやっていた。


今の自分なら絶対に付き合わないような人と、
短い期間だったとはいえ、
「交際」をしてしまったのだ。


それら全てのことを、無かったことにしていた。

いわゆるクーリングオフというやつ。


でも思うのだが、それは、在った。


たしかにあの期間はあったし、

いっときの寂しさを凌ぐために、
相手を利用するかのごとく付き合ったとしても、
あの頃はたぶん「好き」という気持ちが
ほんの少しだけあったはずである。


一緒にご飯を食べに行ったり、
温泉に行ったり、
そういう緩やかな時間が存在していた。


でも、それらを、無かったことにしていた。

記憶の片隅には、たしかに存在しているのに。


「無かったこと」にすることで
前に進める時もあるとは思う。

全てを在ったことにしても、
疲れてしまう気はする。


でも、「無かったこと」にしてきたあれこれの中に、
ほんの小さな、
あたたかい何かが埋もれているような感覚がする。


それすらも「無かったこと」にしてしまうのは、
もったいないのではないか?と、ふと思ったのだ。


「無かったこと」にしたあれこれの中に、
心の奥底に沈めてしまった
幸福が眠っているとしたら、

それを1つずつ丁寧に取り出して、
見つめ直すことも大切なんじゃないか。


年前年始は時間の流れがゆっくりなので、
先のことを構想するのと同時に、
昔のことも思い返していきたい。


−ブログやメルマガに書くまでもない話
(by 20代起業家)

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