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私達は記憶で、「存在してる」と思ってるんだね。

記憶が保持できない時
わからない時
ないに等しい。

だから
「私」にとっては
そこでの認識が止むと言う経験も
実際に死ぬと言うことも
同じ。

それは
気づいていることに気づいていないと言うのとは
違うね。

記憶が保持できなくて私がいない時
何もわからない。
実際に存在していたのか何もわからない。
存在していると思っているのは思考だし、記憶だね。

「私」とは気づいていることに気づいている
と言うことなんだな。

気づいていることに気づいていて、
そしてその気づきを保持できるから
「存在している」と思ってる。

考えてなくても行ったことのある目的地に
着けるのは、記憶という意の働きのおかげだよね。
やっぱり意がミソだな。


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