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「私」や自我はないんだから、苦しくない(はず…)

最近思うんですよ。

「非二元わかったつもり麻酔」で
余計しんどくなったり
やさぐれたり笑
してる人いるなーって。

それだったら
同じ麻酔でも、
「あー、私、しんどいんだなぁ。
私が私をわかってあげよう…
うん、少し楽になったな…」
という方が、
それこそ楽なんじゃないだろうか?って。

「非二元わかったつもり麻酔」は、
それこそもう、上がったと思っているから
助けて!とも言えない。
それこそ
「誰もいないのに、誰に助けてもらうの?」
ってなるよねー…ってなるしね。

そして、
「私がしんどいんじゃない、しんどいが
あるだけだ」ってやっちゃうんだよね。

シンプルに「しんどい」で終わらないんだ。
尾びれに背びれ、色々「解説」
くっつけちゃうんだな。
それが余計なんだけど、気づかないんだ。

それとか、
もう楽になった!しんどくない!
ってなってる場合。

その「楽になった!」が関係ない、という
話をしているにも関わらず、そうやってしまう。

わたしは、そこに既に「しんどさ」が滲み出てる
ように思うんですけど、どうでしょうか?

たぶんね、そうやってる時、
本人も薄々でも気づいてると思うけどなぁ。

「楽になる」
で行くとしたら
楽になるのは「私」だし
緩むのも「私」。

そして、
それはそれでやってみてもいいんじゃないかなあと思う
今日この頃です。

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