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捨てるべき思い出などあるのか。

諸事情により、断捨離をしている。生粋の捨てるの苦手マン。だから実家にも、東京の自宅にも荷物がたくさん。特に紙類が多すぎるのだ。最初はスキャンしてたけど、もはや諦めの境地。だから当時のことをどう思ってたのかをこの場で勝手に振り返る。

高校入学まではほとんど覚えてない。

覚えていないというよりは、ワタシにとっては消し去りたい過去であり、いつのまにか自分で強制抹消してたのだと思う。教科書、ノートとかは実家を出た大学卒業時と引越しに際して、かなり捨てたはず。残っていたのは、誰かからもらった何か。だけど正体不明。とか百人一首大会頑張った時の賞状とか。あと中3の時に100点を取れたのが嬉しくて捨てられなかったテストもあった。

この辺はスキャンして捨てることに。今思えば、あの時あの先生に出会えたから、あんな環境やったけど倍返し?をしたくて勉強してたことが今を作っている。と思えるくらいには過去を消化はできているのだけど、大事にしたいものは結局のところ物理的にはほとんど無くて、捨てた。(プリクラは一応持って帰ろうと思う。)

今の私を語るに外せない三年間。

そう、それは嵯峨野高校で過ごした3年間のこと。すっごい勉強したし、部活はほどほどだったけど出来る限りはしてたし、クラスの中でも割と真ん中で活動していた自負はある。真っ直ぐでいろんなことに全力だった3年間。そんな3年間を一緒に過ごした仲間は、当時の先生が言ってたように一生もんの宝物であり、今でも1番に会いたくなって、頼りにしている人たちでもある。大学時代も、東京に来てからも嵯峨野で出会った人間に救われている。何となく似ているなとか、価値観近しいと思えるのもおんなじ環境で成長したからなのかもしれない。

ひたすらに勉強をしたのかさせられたのか。でもそんな中で特に頑張ってた、世界史とか政経関係の書類は残ってた。自分が頑張ったと言えるものを捨てるのは心苦しいのかもしれない。(数学とかもめっちゃ頑張ってた、けどもう使わないからと大学を卒業する時にこれもやっと捨てられたと思っている。)けど、知識で生きてるのではない、勉強が全てではないと思えるようになってきたから、物理的な教科書についてサヨナラをしようと思えたのかもしれない。(詳しくは後述)

大学時代の学びの場はゼミ。

私は今でも宗野ゼミの卒業生で良かったと言い続ける。あのメンバーであの場で学べて良かったと。残ってるのはゼミ資料(東京に引き上げた)と行シスの資料だった。必死で学んだこと、これからに活かせるのではないかという思いも込めて残していたんだと思う。

あとは就活関係の資料がたくさん。必要なものはスキャンして、基本的には廃棄。次仕事探しをすることがあるかどうかはわからないけど、どう考えていたのかを考える大事な資料だと思って電子データで残すことにした。

正直学んだことは覚えてない。

あんだけ必死に勉強してたのに、学んだことの大半は身になっていないのだ。正確に言うと、当時は詰め込んで覚えていたにしても、そっから数年経つとほとんど忘れ去られているのた。結果としては使わなかった知識を詰め込んでいたのかもしれない。引き出しには残っているのかも知れないけど、引き出し方が分からないのかもしれない。ただ、学ぶ過程で出会った人々、考えたことは無駄では無いはずだから。

生きているのは今だから。

そう、結局今必要としているものとか、これから必要とする可能性のないものを置いておく必要があるのかと考えた。私が大事にしている3年間が高校時代だから、高校時代のものは比較的多く残ってたし、捨てるのも躊躇う。その紙ひとつひとつに思い出が詰まってるのだ。

けれど同時に今の私を縛っているのかもしれない。過去の自分の行動が今を作ってるのは間違いないのだけど、私は今を生きている。今目の前にいる人間関係と仲間と生きていくのだ。だからこれからに必要ないものは捨てよう。とやっと重い腰を上げた。

これからをどう生きたいか。

こんなこと書いても、はっきりとした答えはないのだけど。置かれた環境で咲ける人でありたい。東京に来てからも、出会う人々に恵まれてきたなあと思うこのごろ。だからこそ、今目の前の環境で何が出来るかに向き合わねばならないのだ。少なくとも、大学時代一度はやってみたい思ったことに関われる環境があるからこそ。

捨てるべき思い出はあるのかー。高校時代を美化して、過大評価して生きてきてる卒業後の8年間。あの時の思い出を糧にしながら、でも依存せずに今を生きて行かねばと思った、断捨離活動をした4連休だった。

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