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無垢で小さな五歳児へ(私が私に贈る言葉)

こんにちは。このブログを読んでくださってありがとうございます。

ちなみにトップの絵は私のオリジナルキャラクター、「おともねこ」です。

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↑トップの絵の全体です。一日一枚絵のイラストです。私は趣味で絵やお人形さんのお洋服を作ったり工作をしたりしています。オリジナルキャラクター、おともねこはこれから絵の展覧会にも羽ばたいていく予定です。おともねこについてご興味を持っていただいた方は、おともねこの自己紹介記事がありますので、読んでいただけると嬉しいです。3分ぐらいで簡単に読み終わるかと思います。

PRはここまでにしてこの記事のタイトルに沿った内容に触れていきたいと思います。

2020年で体験した出来事から学んだこととそこから私が抽出した学びを書いていきたいと思います。

体験したことを簡単に書くと、

・修士論文の制作(きちんと自分の関心に沿ってノートをとり続けた。今後も継続します。自分の関心に沿って、調べてそれを言葉にするのはなんと難しいのだろうと思います。特に言葉を使って伝えるというのが私がこの地球にきて与えられた試練の一つかもしれません。言語を使わず、魂で会話できたら相手の取り繕いも全てお見通しなので自分が本当に関わるべき相手と素直にコミュニケーションをすることができるのに、とつくづく思います。偽善、虚栄というものが消えて、人間の卑しい部分を持つ人がのさぼりにくくなるのではないかと思います)

・就職活動(意外と社会人と呼ばれる大人の方も態度が悪い事を知りました。ちょっとがっかりしました。学生には礼儀を申し付けるのに、自身はできていない方もいるのですね。まあ、よく調べたら、その企業はお客様の口コミも、離職率も最低のところだったので、私が訪問する前の事前準備が甘かったのでしょう。社会人、大人、子ども、思春期等そういう言い方である個人を判断すべきではないのでしょう)

・嫌がらせ(どこにでもいるのでしょうね。嫌味な方は)

です。

体験した詳しい内容自体はまた、別の機会に書こうと思います。今回はそこから得た私の学びを書きます。二つのトピックに分けて整理してみたいと思います。

体験したことを通して、自分が変わったなア、と思うところ(自分が変わることに関しての記事も別の機会に書ければいいと思います)

抽出して出てきた私の言葉

まず①です。

全ての人に好かれなくてもよいと思った。(わけもなくなんとなく自分のことを嫌いな人はいます。そういう人に歩み寄ろうとして、認められようとしていくら功績をあげても、無駄です。はじめからその人は私を認めない、と決めているのです。その人のくだらぬ舞台に乗る必要はありません)

自分を発信するようになった。(何かと表に出ることが増えました。あとなぜか私の意志とは別の意志が働いているかのごとく勇ましく活動し始めました。もう自暴自棄になってしまったのか、人というものに呆れてしまったからこそなのかはわかりません。人の心を思いやるというものの見方が変化したのでしょう。相手を傷つけまいとして、自分が傷つけられるという構造そのものが憎らしくてしょうがないと思います。人は他人に対して無頓着です。無頓着でないと生きていけないのでしょう。人を外側から観察している何かがいるとすれば、人間こそ残念な生き物図鑑に載せられてしまうような習性を持っているのでしょう。しかもおそらく殿堂入りにそうだと思います。)

失敗がこわくなくなった。(これの原因は自分でも自覚できるところです。まず、就職活動です。これはこの時期に一社も落ちずに内定をとった人はほぼいないと思いますが、この落ちる、という体験です。落ちると自分の何がいけなかったのかを考えることがありますが、実は自分のせいではないことがあります。向こうの事情はそれはあると思いますが、それとは別に相手がおかしいのだと考えることも必要なのではないかと思います。つい、相手は自分の人生より長く生きているので、正しいだろうという思い込みが働いてしまいそうですが、そうではないのです。これは人のせいにする思想だと思われるかもしれませんが、違います。物事を見極めるには一度自分が原因で、悪いと考える思考から離れなければ大きな経験値は得られないと思います。自分を責めて変えること、これはもちろん自身を反省し成長させることはできますが、もっと全体的な視点を入れることだってできると思います。そうすることでより、自分を変化させるときに、正しく自分が選ぶべき方向を選択できる確率が上がると思います。人は神ではないので常に自分が選ぶべきことが見えるわけではありませんが、やみくもに反省しても仕方がありません。まず、状況が自分にとってどういう場所であったかも含めて反省することで自分のこれからを考える方が私はよいと思います。常に自分が悪いという考え方は美徳みたいに見られがちですが、私はあまり納得できません。そう言っておけば共感が得られると考える人が多いだけだと思います。つまり一種の虚栄だと思います。反対によく見極めるつもりがただ人のせいにする、という思考になってしまうのが人の弱さなのかもしれません。それはまた見苦しいものではあると思うので、バランスが大切だと思います。なんでもかんでも相手が正しくて自分が間違っている、という思考は自分が立ち向かう意志を萎えさせ、何かに疑問を持つことを無くし、自分の違和感を大切にできなくなる思考回路だと思います。相手に自分の実権を握られやすくなるとも思います。)

何かを始めることがスムーズにできるようになった。(だいたい私は腰が重いです。もちろん、これは比喩で実際に体重が超肥満というわけではありません。なぜか知りませんが、2020年は活動の年になりました。やるべきこととは別に趣味の分野でも何かと活動的になりました。絵を描いていたら、発表の場が提供されることになりました。誰かに注目されるというのは嬉しいことですが、それは二次的なもので、自分が楽しく活動して、魂をのせて描いていたら、好かれるようになった、というのが一番嬉しいことでしょう。しかも、その心が純真なものであればあるほどそれを見つけてくれた人に感謝できます。し、関わるべき人だとわかります。行動してみると呼び込まれる何かというものはありますね。それはいい事ばかりではないですが。私はなるべく活動を素敵な人に出会うきっかけになるような活動にしたいです。それは魂で繋がっちゃうような。うふふ...)

次に②です。

ここでは出来事から抽出されて出てきた私の言葉を書きます。

無垢な私の五歳児の心に勇ましく戦場に出て行って血まみれの私が教えを説くようなイメージです。

もしかすると誰かの血まみれの心にも届くかもしれません。

「人に認められるのを喜んではいけない。その認めてくれた人は自身が許容できる範囲でしか人を認めていないかもしれない。そいつに認められるべく行動すれば、自身が愚かになるだろう。認められた、というのは嘘でただ、足を引っ張てくるだけの馬鹿であるかもしれない。特に人の思想や意見に自身が知る限りの今までの知識でレッテルを貼ってくるやつには細心の注意が必要。そういう人とは離れるしかない。ほっとけ。そういう愚か者に理解されず、認められない、というのはある意味で勲章を授かったわ。ぐらいに思っておいた方がよい。」

言葉が出ない時は「ごめん。上手く言い表わせる言葉がないから。でも、言える言葉が見つかったら言うね」と言う。

「私はそうは思わない」と言う。そう思う時は。それが自分の魅力になるかもしれない。しかも、その時は自分は誰も味方がいないと思っていてもちゃっかりかげで観察している人はいるかもしれない。たいそうなもの好きだとは思うけど。

肯定されることばかりが好きな人ばかりではない(かもしれない)

もしその人、個人に興味があるなら、焦らせたり、その場で回答を求めるようなことはしないのではないかと思う。もしかすると人というのは最初から好きな人には好きで嫌いな人は嫌い、という何か直観のようなものが働いており、聞く耳を持ちたいと思う人とそうではない人は最初から選別しているのかもしれない。無意識に。もちろん、相手に「こういうやつに違いない」と勝手に期待をかけて期待外れだったと勝手に切り捨てることはあるとしても。

相手の舞台に参加しない。

嫌な場所だと思ったら去る。何も出てこない。


以上です。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

また、機会がありましたらよろしくお願いします。

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