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三浦春馬君の訃報が辛い理由、ネガティブな同一化・共感化。(3)

どうしてこんなことになってしまったのか。
なんで、私はこの人のことばかり考えているの。
今も、モニターに映るこの写真を眺めながら考えるが、さっぱりわからない。

イイ男だなぁ…。

三浦春馬君は、いったい私の何だったのか。
実生活では会うことのない人。
何でもなかったんだろうと思うが、今や、私の頭の中のほとんどが春馬君で占められている。
日が経つにつれて、それは増幅している。
仕事の時間にも浸食し始めている。
仕事しながらでも、頭の片隅でずっと春馬君のことを考えている。

今はもうこの世には存在しない、春馬君のことを思い続けることは、苦しいのか苦しくないのか。
それもよく分からなくなってきた。
苦しいと言えば苦しい。
毎日、春馬君探しは続いている。
いまだ、春馬君がこの世に存在しないという現実を受け入れられないところがあって、事あるごとに泣いて悲しんでいる。
春馬君のことを思っても、その思いを吐き出す場所が現実社会にはないから、ここに書き殴る。
しかし、最近では、思い続けることにも慣れて、日常になってしまっているのも事実だ。
今は思い続けていることが当たり前になっているが、いつか、この思いが薄れていき、春馬君のことを思わない日が来るのか。
果たして、そんなことで良いのか。
思い続けられるうちは思い続けていたい、忘れる日が来ることを恐れている、そんな自分もいる。

こうなってしまった自分の取り扱いに困り、私はこんな記事を2本書いた。

私にネガティブな同一化が起こったのだろうと思うが、この記事はその続きで、「どうして」私にネガティブな同一化が起こってしまったのか、自分なりにああだ、こうだと考えてみようと思う。
私には、心理学的な専門知識があるわけでもないし、これ以降の記事は、今の時点の私の思考を吐き出して言語化するだけなので、ロジカルでもなければ、オチもなく、独りよがりで、結論にも行きつかない、そんな文章が延々続いていく。
読まれる方は、その程度のことだと思って読んでくださればありがたい。

まずは、春馬君以外の、今年、亡くなった著名人を思い浮かべてみよう。

若い人、年配の人、亡くなり方も様々だが、その訃報を聞いて驚いたのは、志村けん(愛を込めての敬称略)と竹内結子さんぐらいだろう。
志村けんは、子供の頃に良く観たテレビの中のお笑いスターの一人で、思い出はそれなりにあるし、その亡くなり方が新型コロナウィルス感染症でというのも、すごく悲しく感じられたのだけど、その後は、追悼番組も観ることもなく、何ら私自身には影響もなく現在に至る。
竹内さんのことは、この記事の最後で触れる。
今年だけに限らず、過去、芸能人が亡くなったからとて、こんな長く悲しみを引きずることは、私の人生で一度もない。
もっと言えば、身内、友達、同僚等、自分の身近な人が亡くなっても、その時はすごく悲しいが、こんなに引きずったことはない。
たぶん、春馬君だから、こうなってしまったのだろうと思う。

三浦春馬君の何がそうさせるのか

では、春馬君の何に引っかかって、私の関心が春馬君に向き続けるのか考えていく。

・春馬君が若かったから?

確かに30歳は、亡くなるにしては早すぎる年齢だ。やるせない感じはする。もし春馬君がもっと若かったら、逆に、もっと歳を重ねていたら、受け止め方は変わっていただろうか。あまり変わりはない気がする。享年はあくまで数字でしかなく、その人がどれだけの年数を生きてきたかというより、その人がどう生きてきたか、それを私がどう受け止めたかがキーになるのかなと思う。

・春馬君の容姿が良いから?

勿論、春馬君は格好が良い、美しい男性だと思う。もともと容姿端麗だからこそ、俳優になったということもあるだろう。これが全くのそうでもない人だったら、私も、全く気にならない可能性はある。そういうのも、私は付ける薬が無くて困る位の重度の面食いで、万国のイケメンがあまねく好きだ。春馬君も基本的には好きな部類に入る。去年あたりの、髭を生やしてミディアムヘアの春馬君は、大人の雰囲気も出てきて、モロに好きな見た目だったのだが、それ以前の春馬君は、申し訳ないが私には幼く感じられてしまって、ドンピシャでタイプ!というわけでもなかった。(どの口が偉そうに言うのかと、四方八方から総攻撃をくらいそうで、怯えながらこれを書いている。)本来ならば、年を重ねて大人の男の色気も出て、春馬君はより一層、見目麗しくなっていったことだろう。その姿はすごく見たかった。しかし、その益々のイケメンぶりを見られないこと自体は、そこまでのタイプでもなし、惜しむほどのことではないような気がする。遠因だと思う。

・出演作品を観たから?

観た作品に出ていたぐらいでは何ともないだろう。

・亡くなる数日前までテレビに出ていたから?

亡くなる二日前に、「せかほし」に出ていた。こんなことになるとは微塵たりとも思っていなかったから、しっかり観ていなかったけど、それでも春馬君の笑顔は覚えている。あの番組は収録なので、そこに映っているのはもっと前の春馬君だろうけれど、亡くなる二日前まであんな楽しそうにテレビに映っていた人が亡くなるのか。衝撃だった。大抵の亡くなる人は、その前から徐々にフェイドアウトしていくもので、その人の印象も薄まったところで訃報を聞くから、こちらの受けるインパクトは弱まるものだ。または、何かしらの理由で、春馬君がメディアへの露出が減っていて、既に忘れられた芸能人みたいな位置づけになっていれば、その時点で訃報を聞いても、そんなにショックは受けない気がする。直前までテレビに出続けてた人が、理由は何であれ突然亡くなるのは、視覚的な印象としても、信じられないことが起こった感が強く、衝撃は大きい。

・好きな俳優だったから?

ファンというほどではないにせよ、一時期でも「三浦春馬君、好き!」と思ったのは確かだ。だけど、ちょっとでも好きになった俳優が亡くなったというだけで、こうまでなるのか。ならない気がする。そういうのも、今も、他に好きな俳優は何人かいるが、やはり私の、個々の俳優に対する入れ込み具合がライトなせいか、その俳優が仮に今すぐ亡くなってしまったらと想像しても(勝手に亡くならせてごめんなさい。)、恐らく「そうか。」という位で終わりそうな気がする。アイドルにご執心の女子みたいなピュアな感覚を、悲しきかな、もう私は持ち合わせていない。俳優は俳優だ。エンタメ大好きな私だけれど、彼らは実生活では関わり合いのない、違う世界の人たちだと、バチンと線が引かれている感覚がある。

・春馬君の死因が自死だったから?

これが病死や事故死だったらどうだろうか。それも彼の運命と思ってしまうかもしれない。しかし、春馬君は自ら、自身の人生を終えた。これはかなりこたえる。これまでも至る所に書いてきたように、「なんで」「どうして」の嵐だ。私自身を納得させるような答えを探すのだろう。例えば、病気に苦しんでいた、人間関係の悩みがあったとか、何となくでもそんなことがわかれば、事実かどうかは分からなくても、勝手に納得感を得て、気持ちを落ち着かせることができるのだろう。しかし、春馬君の場合はそういう感じではない。春馬君がどうして自ら生きることをやめたのか。彼がそんな道を選んだヒントが過去の作品に、過去の役柄にあるのではないか、そんな気がして今も彼の作品を見続けているところがある。きっとこれは永遠に答えが見つからないのかもしれない。

まだまだ、この後も、この思い巡らしは続いて行く。
引っ張るつもりとか、もったいぶるつもりは全くないのだが、今回はここまでとしておく。

哀悼・竹内結子さん

竹内結子さんは、好きな女優さんだった。
最後に竹内さんを観たのは、映画「コンフィデンスマンJP プリンセス編」でのスタア役だった。
竹内さんの最近の出演作で印象に残っているのは、「コンフィデンスマンJP ロマンス編」で、演じたラン・リウはとても良かった。
撃たれたはずのジェシーの姿が消え、パープルダイヤも奪われ、騙されたことを悟ったラン・リウが、ゴミ箱を蹴って叫ぶシーン。
ヘリポートにやってきたラン・リウが「生きて香港から出られると思うなぁぁぁ!」「この場で全員皆殺しにするぞ!」「逃がすなぁぁぁ!」と怒鳴るシーン。
美しく、怒り狂う。
もともと表情豊かに演じ分けるのが上手な女優さんだったけど、特に、私は狂気じみた演技をするときの竹内さんが好きだった。
どういう理由かはわからないけれど、昨日は、竹内さんの心にも闇がやって来てしまったのだろう。
心からお悔やみを申し上げたい。


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