037 十七文字では少なすぎる、せめて三十一文字は

短歌好きだってことは、何度か書きました。自分でつくるのではなく。

自分で何かするのが嫌いと言うわけではありません。でも、短歌と格闘するより、上手な歌を読んだほうが、はるかに楽しいし、心が熱く動きます。なかなか上手に詠めないもやもやを抱えた時間を長く過ごすより、素晴らしい短歌を読めば、ずっと幸福な時間が手軽に自分のものになります。

どうも、研ぎ澄ますってことが苦手なのかもしれません。

学習するってことは嫌いではないんです。本を読んだり、誰かと話していて学ぶ機会はたくさんあります。でも、一つところに籠って、1時間や2時間聴講するっていうのが、どうも苦手なのかも。そうか、今ふうに言えば、ADHDってやつだったのか。大学を卒業してからのボクは。

それはさておき、夜、21時過ぎに夕飯を食べに来られたカップルがいました。

「遅い食事ですね」

「ええ、やっと学校が終わったものですから」

どう見ても、大学生には見えない妙齢の女性です。教えるほうってこと?

ボクの疑問顔を感じ取ったのか、すぐ答えを明かしてくれました。

「仕事が終わった後、遠い昔に放り出していた勉強を再開しようと、社会人クラスに通っています」

「気になるなぁ。どんな学問なんですか」

昼間、彼女はIT系の仕事をしていて、夜は大学で臨床検査の勉強をしているそうです。理系繋がりとはいえ、まるでジャンルは違うように思えます。そう尋ねると、意外な答えが返ってきました。

「昔は考えたこともなかったのですが、リモートで仕事をすることが多くなって、検査データを僻地に送れるようになれば、どこに住んでいても最新の医療が受けられるんじゃないかと思いまして」

素晴らしいですね。コロナ騒動で空いた時間を活かして、社会の次のステージを考えている人がいる。それも、自分の出世や成功のためではなく。

「でも、学びはじめて見て、もう結構進んでいることに驚きました。昔、私が学んでいた時代とは大きく変わっていました。今さら勉強しても、大して役には立てないかも」

「いや、現場で働いている人にしか思いつかない、何か気づきや発見があるかもしれませんよ」

確信はないながら、その気持ちを応援したくて、そんないい加減な返事をしてしまいました。でも、こういう人って、どうして女性のほうが多いんだろう。。。

小島ゆかりさんの歌を読んでいて、そうか、と気づくことがあります。恋をして、結婚。妊娠して、子どもを持って、子育て。そして中年の危機、さらに介護。そのうえ自分の老いと向き合う。その人生すべてを短歌に昇華してきた歩みを読むとき、愚鈍なボクには気づけない人生の一瞬のきらめきを、彼女は言葉にとどめています。

別にボクが妊娠して子どもを産めないからできない、と言っているのではないんです。そうした人生の一つひとつのきらめきに気づき、それを言葉に代えられるかどうか。言葉にするから、行動にもできる。そんなことを、ふと思いました。

さうぢやない心に叫び中年の体重をかけて子の頬打てり (小島ゆかり)

ボクには絶対真似のできない強い覚悟、真摯な行動、そして絶対作れない真っ直ぐな歌です。そもそも、ボクは歌を詠むことはないのですが。。。

正岡子規は優れた俳句をつくっていますが、『歌よみに与ふる書』で短歌にも技巧や言葉遊びではなく、ありのままを歌う写実主義をすすめたと言われています。その時代から遠く、現代の短歌を見て、どう評価したでしょう。

好きな歌人の歌を紹介し合う「短歌好きあつまれ」という毎月恒例のイベントとは別に、新たに「かくじかん」という、何か書きたいという人の集まるイベントの1回目が先日開催されました。

書くのは手紙でもいいし、日記でもいい。時間が余ったら、連歌ふうな遊びでもやろうということになって、珍しく、集まったメンバーで短歌をつくりました。全員が五七五七七の三十一文字で、先に作った人の歌から言葉かモチーフを繋げる、というルールで。

だって、俳句ではなかなか心の中まで伝えられません。十七文字しかないんですよ。

青い空 想い出にしてしまうには NEWすぎるから 紅く補正す

あついお茶と冷たいお茶の間にて コロナブルーの夏、霞み行く

きみの手を つかみたいけど つかめない 引き寄せて 空の手ごたえ霞雨

霞草 君が好きだと言ったから 百レシピつくり 仙人になる

タンサンの水泡をただ ゆっくりと見追いし幼子に帰えるこころみ

試みに昨日世界を消してみた 今日の俺は誰でも愛せる

あまり自慢できる歌はありませんが(あっ、どれがというのではなく、自分のつくった歌についてですよ)、結構楽しめたのは、自分が歌をつくることより、待っている時間のほうでした。誰かが隣の部屋で短歌をつくっていて、出来上がったらそれを持ってきてくれる。それに対して、歌=自分の言葉、で何かを伝えようと応える。

これこそコミュニケーションってやつですね。言葉は誤解も生みますが、それって狭義の理解をしてしまうからかも。誰かの書いた、たった三十一文字を読みながら、その裏に潜む心に問いかけながら、返事にはならないにしても、自分の心を投げかける。

そういえば、彼女の仕事が終わって大学で学んでいる間、彼は何をしていたのでしょうか。彼女が仕事や、将来の夢を語っている間、ニコニコと聞いていた彼と彼女のキャッチボール。三十一文字よりも、十七文字よりも短い、沈黙と了解というコミュニケーションがあったように思えました。

そうだ、無口や無言にもコミュニケーションはあるんだ。でも、どうやって、それを伝えればいい? 理解すればいいのか?

三十一文字じゃなくて、31秒の間、黙ってお互いの顔を見る? それはもっと難しいですね。人の顔を見るって、苦手なんだよなぁ。武田泰淳が言うところの伏目族だから。

何を無粋な、言葉は、いらないってか。。。

でも、ボクには言葉なんだよなぁ、と思った夜でした。

優しさの定義はあまたと思へども 初めに言葉あるべしと思ふ (黒田京子)

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