012 信仰を持たない者の祈りの道

この半年、外国人旅行客が店に上がってくることはなくなりました。彼らが異文化を纏って訪れる、まさに誤配のない時代になっています。この国が、ますます島国状態になってしまうのではないかと心配です。

英語もできないのに、何を言っているんだって? でも、たどたどしい会話を通じて、心が通じた気がする瞬間があります。

フランスからやってきたカップル。男性は大学院で祈りの道についての研究をしていると言います。

「サンチャゴ?」と訊いたのはボク。

「サンチャーゴ?」

ああ、そうだった。『サンチャゴに雨が降る』は、チリの民主政権が軍事クーデターで倒されるまでを描いた古いフランス映画だった。

「Oh sorry」え〜と、そうだ。

「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」

フランスからピレネー山脈を越えて、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラに向かう全長700km超にも及ぶ幾重にも分かれた道は、祈りの道として有名です。いくつもの映画にもなっているはず。

ようやく話が通じました。しかも、彼らはちょうど半年前、その道を3ヶ月かけて歩いてきたばかりだと言います。信じられないくらい素晴らしい体験だったと、次々と変わる美しい風景や人々の暮らし、文化について説明してくれましたが、残念ながらその半分も理解できませんでした。

ボクは、旅行者にとっても、彼らを受け入れる街にとっても、旅行客は或る意味で誤配であって、それが世界の多様性を生むかもしれない希望だと考えているという話をしました。おそらく、半分どころかほとんど伝わらなかったでしょうが。

誤配=misdeliveryでいいのかなぁ? それで伝わっているか、ちょっと心配です。

彼が、日本にもそういう道はあるのかと訊きます。おおー、少しは通じてるじゃん。

「熊野古道」と答えたボクに、彼の顔がパッと輝いて、そうそう、そこに行きたかったんだと言うではありませんか。あの笑顔、写真にパチリと撮っておきたかったなぁ。パッと輝くって、言語的な修辞法ではなかったんですね。白人だから、なんて野暮なことを言うのはやめましょう。

ボクはネットで検索した地図を見せて、大辺路、中辺路、小辺路、吉野からの大峯奥駈道、伊勢路など、サンティアゴへの道のように幾筋もの道が熊野に向かって交差していること、その全長は1000kmもあることを説明しました。

最後に、町営銭湯「崎の湯」に絶対行くべきだってことも。太平洋の一部を囲っただけの、小さな絶景温泉。

二人はいつか日本に戻ってきて、必ず全行程を歩きたいと言いました。気軽に「その時は一緒に行かないか?」と誘うのは、欧米人だからですね。ボクは365日年中無休で店を開けているから、残念だけど無理だよと答えました。本当は、「妻がそんなに長くボクを離してくれないよ」とジョークで返したかったのですが。こういうとき、言葉が不自由って悲しいですね。ジョークほど言葉にできない。

ボクは大辺路、中辺路、伊勢道を何度か歩いていて、熊野古道が世界遺産になる前からの大ファンです。そのとき撮った写真があればよかったのですが、スマホなんてない時代でしたから。

発心門王子周辺の奥深い山道に時々こぼれる日差しや、那智の滝に至る裏道にある石階段の写真を検索して見せました。「oh no」とか「beautiful 」といったシンプルな言葉で感動を分かち合えるのは、お互いが母国語でない英語で話しているからですね。でも、感動って難しいセンテンスはいらないんだ。

こうした思いがけない出会いが、もう半年以上なくなっています。信仰を持たないボクが、なぜ熊野古道に惹かれるのか、それはわかりませんが、道には、特に古い道には、心の奥深くに潜んでいる感情や感慨を解き放つ何かがあるように思います。それは国籍を問わないようです。遠く東アフリカの果てから旅をしてきた遺伝子のせいでしょうか。

コロナ騒動にあって、ソーシャル・ディスタンスという横文字に騙されて、身体的な距離だけではなく、心理的な距離まで2m以上拒絶しているかに見える人々。この後、ワクチンや薬が開発されたとして、人々を疑心暗鬼にさせた病因は、ウイルスとともに遠ざけられるのかなぁ。

もう一度言いますが、ボクは信仰を持ちません。でも、この騒動の後の世界に生きていく若い世代にとって、これ以上ひどい世界にならないでほしいと、祈りに似た思いで強く願っています。

大江健三郎さんの長男・光さんは頭に障害を持って生まれました。大江さんは毎日、病院のガラス越しに真っ赤な顔をして泣く新生児の光さんを見て、ある日、一緒に生きていこうと思ったと言います。

言葉をまったく話さないと思っていた光さんが、大江さんと山中に二人でいるとき、鳥の鳴き声に反応して、その鳥の名前を口にしたそうです。「クイナです」と。息子が話す初めての言葉です。

その声を妻にも聞かせてあげたいと一緒に待ったけれど、夜になってしまったのでまったく鳥の鳴き声がしません。そのまま待ち続けると、やっと夜鷹が鳴いた。光さんは「ヨタカです」と告げる。

でも、これは何かの間違いか、一度だけ訪れた、二度と起きない奇跡じゃないのかと夜が明けるのを眠れず待った。朝になれば鳥たちが一斉に囀り始めるからです。

夫婦二人で、光さんが二羽目の鳥の名前を口にするまで待っている間に感じていた思いを、大江さんは祈りに近いものだったと表現しています。信仰を持たない者にも祈り、あるいはそうあってほしいという強い願いはあるという例示として。

大江さんは息子の光さんがこれから背負って歩いていく人生を、誰もなかったことにはできないと思ったと書いています。そして、光さんが生まれてきたこと、それをなかったことにはできないと受け止めた瞬間を、一種のエピファニー(epiphany)だったのではないかと。信仰を持たない大江さんにとっての、ある種の奇跡の顕現としてとらえて、一緒に生きてきた大江さん一家。その物語を読み続けることが、ボクは自分の読書人生の伴侶でもあったように思う時があります。

大江光さんは、その後、みなさんがご存じのように『大江光の音楽』ほか素晴らしい音楽(CD)を発表しています。

大江さんの「信仰を持たない者の祈り」は『人生の習慣』(岩波書店)に収録されています。九条Tokyoのミニ図書館にも置いてありますから、いつでもどうぞ。

さて、ボクの祈りにも似た願いは、もう一度行きたい場所に行って、そこで誰かと感動を分かち合うハグや握手、キスを取り戻すこと。ぬくもりが実感できるコミュニケーション。

ようやくめぐり逢えた父子と女性が奇跡のような再会を遂げたあと、おずおずと握手する映画『めぐり逢えたら』のように。

友情を信じ、老いに絶望して人生を自ら終わらせることなく、再会を果たしてハグする映画『ショーシャンクの空に』のように。

キス、キス、キスいっぱいの幸せな映画『ニュー・シネマ・パラダイス』のように。

あなたが再び行きたい場所を7つ紹介して、この騒動が終わったら、そのどこか一つに行って、そこで握手かハグ、キスをしている写真をアップする−− #7daysplace というSNS上のプロジェクトを、九条Tokyoではこっそり始めています。あなたも参加しませんか。いつか、それを本にしたいと思っています。コロナ騒動を克服した証というよりは、手触りのするコミュニケーションを取り戻した記録として。

ボクが再び行きたいのは、もち、熊野古道や崎の湯。

でも、熊野古道だったら、今だってソーシャル・ディスタンスなんて関係ない気もするけど。。。

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