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人の本質を見極めるには

小学校のときの先生と久しぶりに電話で話した。
大人になってから、初めてだと思う。

その担任の先生は小学校3年から6年まで
4年間お世話になった。

でも、考えてみれば、
先生がどこの出身で
どこの大学を出たかとか、
兄弟やお子さんがいるのかとか、
何も知らないことに気がついた。

私が知っている担任の先生は、
地味で、遠足の日のお弁当は
新聞紙で包んでいて、
NHKのにんげん家族が好きだった。

こんなことがあった。
放課後、クラスの中島君に、
先生はいろんなお手伝いをしてもらっていた。
そのことを知った北村君が、
先生はえこひいきしていると言った。
いつも穏やかな先生が、
真剣な顔をして言った。
ひいきしたら悪いのですか?

その真剣さに、教室はシーンとなった。
「先生が中島君に手伝ってもらうことは
ひいきですか?」

私は中島君の家庭の事情を何も知らない。
中島君は、転校生のようで、
みんなと違う黄色のリュックサックをしていた。
放課後、まっすぐに帰れない都合が
あったのかどうかわからないけれど、
先生のお手伝いをしている中島君は
楽しそうだった。

皆と同じように接することが、
平等でよいことのように思われているけれど、
人それぞれ個人差があるのに
画一的に同じように接することのほうが
異常な気がする。
なぜなら、まったく同じように接するのは
人間ではなく機械だから。

何が平等で、何が平等でないのか。

例えば、男と女が平等だからといって、
同じ力仕事を男性と女性が同じようにしても
筋力の違いで同じようにできない。

本当の平等は、男性には男性の能力に応じて
女性には女性の能力に応じて
与えることがフェアというものだ。

そんなことを考えると
先生は、一人一人に応じて
接してくれていたのだろうと思う。

先生が何を話して、
どんなことをしていたのか。
そんなことしか記憶になく、
先生のいう人間の社会的背景は
何も知らない。

大人になれば、
この人はどんな地域で
年収いくらぐらいで、
家族構成はこうで、
どんな車に乗っているのか
そういうことを結婚相手の条件とする。

それは、小学校のころ知らなくても
関心も抱かなかったようなことだった。

小学生のころの目で人を見れば、
本質的なものが見えるのかもしれないと思った。




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