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『夜と霧』感想

心に重くのしかかる壮絶な本だった。収容所で起こった人間のむごたらしい一面について、ユダヤの悲劇やそれを産んだ人種差別、戦争に関することはとてもじゃないが今は考えられそうにないので、今回は割愛する。

すぐに頭に入ってきたのは、本の終盤にあった著者の、生きる意味を問うことについての主張だった。今回の感想はそこだけを考えたものである。


著者は、収容所で過ごす中で、生きる意味についての問いを百八十度方向転換させることが必要だったと記している。

『もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、私たち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。私たち自身がその問いへの答えを迫られている。考え込んだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、態度によって、答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに答える義務を引き受けることにほかならない』(抜粋引用)

衝撃だった。私は今まで、生きることの意味を問うことを諦めて、その問答自体を視界から遠ざけて生きていたからだ。

生きることに課された意味など存在しない。正確には、生きる意味は与えられていないと思っている。自分は生存競争で生き残ったアウストラロピテクスの進化版生物の切れ端で、種の保存の法則から考えると強いて言えば世代を次に繋ぐために生まれた。子供が欲しかった両親の間になんとなく偶然で生まれたのが自分なので、そこに与えられた意味などありはしないという考えだった。だから意味が必要なら自分で決めて、それに責任をもって生きればよいのだという答えを出していた。今のところ生きる意味は決めておらず、生きる理由も「幸せを味わって楽しみたいから」だった。

今回『夜と霧』を読んで、やはり生きることに意味は与えられていないという確認ができた。同時に、その問答を逆にするという発想に衝撃を受けた。

私は、「お前はどう生きるのか」と生の方から問われていたのか。そして、その問いに自分の行動や態度、生き様でもって答える義務があったのか。

物凄く納得がいった。今まで2ミリくらい齧った宗教や哲学の中でも、特に自分の中にすんなり受け入れられる考え方だと思った。敬愛する宇多田ヒカルさんがインスタライブで「生きる意味」についてファンから質問を受けた時、この本を引用して答えており、その事実もまた非常に著者の主張に感銘を受ける理由になった。

総じて、人生を通して何度も読みたい本だと思った。同時に、読むのにものすごくエネルギーのいる本だった。精神的なグロに耐性のある友人が元気のある時に読むことを勧めてくれたのもよくわかる。これは抉られる。今思い出しても吐き気がするほど強烈な本だった。

著者の主張に、一つだけ呑み込めない言葉があった。冒頭の抜粋は、『正しい』という言葉を全て抜いている。非常に流動的で扱いにくい言葉だからだ。絶対的な正しさというのも存在しない。個人的に、他人に対して使いたくない言葉の上位に入る。争いを生む言葉だ。この『正しい』という言葉についても、またどこかで書きたいと思う。



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