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パエリアのためには

パリで出されたフランスパンやらコーヒーの少なくとも三倍の量はある食べ物を、途方に暮れながら凝視した。

スペインの首都マドリッドからホステル到着後、とにかく米を欲してレストランに入った結果だ。
美味そうなパエリアの写真を見つけ、格式張っていない入り口の木製扉を開けると、近所の中年男女が酒盛りをしていた。その辺のカウンター席に押しやられるのかと思いきや、髪を撫で付けた洒落たウエイターに案内されたのは奥のテーブル席だったのだ。

入り口の見かけによらずシャンデリアの飾られたこんなに高級そうな飲食店に、さっきまでバックパックを背負って汗にまみれていた、しかももう一週間も洗濯していない服を纏った、よくわからない東洋の少女が入店して一人で利用するのだから、奥のキッチンで店員同士が噂話をし出してもおかしくない。
着飾った中年カップルが一つも理解できない流暢なスペイン語で会話する様子に目を見やるのも失礼なので、興味があるわけでもないどこだかのサッカー中継を眺める。

ああしかも、予めセットされた繊細なワイングラスを使う気は皆無で、パエリアにコーヒーを合わせて注文する辺り、コイツはもしかしたら飲酒可能な年齢に達してもいないのではないか、とタダでさえ幼く見られがちな日本人の中でもことさら童顔らしい自分は思われていてもおかしくはない。ワインはやはり高過ぎだ。
いかにもサッカーに興味あるフリをして、サッカーボールの動く方向へ首を数ミリ動かしてみるくらいしか体のやり場がない。

熱々のパエリアが届くと、先ほどコーヒーで派手に火傷した猫舌に苦しんで、赤ちゃん用かという程ふうふう息を吹きかけて口へ運んだ。 美味いんだか熱いんだか硬いんだかわからないが、とにかく全く言語の勉強をしていないスペインに辿り着き、いかにもスペインらしい料理を口にして、食道と胃以外も熱を帯びてきた。
基本的に右利きの私だったが、落ち着いて灼熱のパエリアを咀嚼するためか、このときは自然と左手にスプーンを持ってゆっくり動作を繰り返していた。

それにしても、いつもの癖でエビを食べるときは頭から尻尾まで殻ごとバリバリ音立てて噛み砕いたので、お隣で婦人の言葉に厳粛な間を空けて頷く旦那様の迷惑になったのではないかと、ますます隣席に目を向ける勇気を失って、かといって悄気ながら食べるのもまた情けない格好なので、ただ黙々と黄色い米つぶを口に運んだ。瞬きは通常の半分もしていない。

ウエイターがチラリとこちらの様子を伺う度に、私はまだ食事中で空の皿はないとアピールする必要があるように感じたし、あんな小汚い小娘を不釣り合いな高級席に案内するなんて失格だな、と先のウエイターが裏で上司からお咎めを受けている可能性もあるので、私は極力マナー良く振る舞うことに努めた。転がり落ちたフランスパンのカケラは、誰の目にもつかない内にソッと手で摘まみ取った。

パエリアがあるにも関わらずフランスパンが運ばれてきたことも、ワインではなくコーヒーを注文したことも、そもそも純白のランチョンマットが敷かれた立派なテーブル席に案内されたことも、到底金持ちの顔をしていない私が紙幣を取り出すことも、全て滑稽に思われた。この滑稽さがある種の規律を生み出しているのだと錯覚しかねないほど、見事に私は外界とそぐわなかった。
僅かなチップを含めた支払い後、隣席のお客から見守られるような視線を受け、夜のマドリッドへ再び出発した。

#小説 #旅行記

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