魂の旅性

此処ではないところを渇望する人間にとって、「今ここ」における自分を考えることは無意味である。此処ではないところを追い求めていけば、常に自分の存在するところが「今ここ」になってしまうとしても、そうであるからといって「今ここ」にいる自分が自分のすべてである、とする前提は間違っているのではないか。

セクシュアリティの分野を例に取れば、自らがヘテロセクシュアルであるとすること、ゲイであると認識すること、は単にそうした恋愛が多かったという反復経験に過ぎない。今後変わる可能性はあるのであり、セクシュアリティを規定することで自らをも規定することは無理がある。セクシュアリティを考えるとき、三次元の世界を浮遊していると想定すればいい。動き回る人もいれば、その中で留まっている人もいるのであり、留まる人は今のところ定住者といえるが、今後引っ越しや旅をするかもしれない。つまりセクシュアリティがぶれることはある。

性的指向のみでなく、性自認についても例をとると、トランスジェンダー(特にトランスセクシュアル)の人は、なぜ自分が別の性であると自認可能なのであろうか。一度も別の性を経験したことがないにも関わらず、自らが現在の性で生まれたことが間違っている、となぜ考えることが可能で、法律や医療も受け入れているのか。性同一性障害(この言い方は古いがわかりやすくするため用いる)があるならば、種同一性障害なるものもあるのではなかろうか。「私は人間である」という前例を打ちこわすものがあったところで不思議ではない。

そもそも固定された存在者の方が希少種だと考えられる。動き回るものが常であり、それは性的指向や性自認、生活においては定住者、魂の分野でも同じことである。ひとつのところに居座って生きていくことの方が難しく、人間の利便性を重視する必要性を捨てれば、固定されないことの方が自然に生きていくことなのではないか。

参考文献
ヘルマン・ヘッセ 『春の嵐』『荒野のおおかみ』魂はひとりの存在者の中にいくつも分裂して存在している。
松浦理英子『犬身』〝種同一性障害〟
デイヴィッド・ルイスの様相実在論 『世界の複数性について』可能世界は実現する。
マルクス・ガブリエル 『なぜ世界は存在しないのか』〝すべてを包括する世界〟以外のすべては存在する。

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