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『宇宙を哲学する』

フランスの詩人マラルメは、今から100年ほど前の20世紀初頭に、白い紙の上にインクで記した自分の散文詩が、天空の星座を白黒逆転させた存在となることを欲し、それによって、芸術作品創造の作業が宇宙創世の秘密に連なることを願ったと伝えられています。マラルメの考えでは、天空に散りばめられた星々が神の創造の産物であるとすれば、人間はインクの墨を使って裏返しの世界の創造作業に参加することになると思われたのです。
(『哲学塾 宇宙を哲学する』p5)


最近発見した、というか改めて気づいたことがある。

自分が書く文章も描く絵も撮る写真も、恐ろしいほど、人がいない。

高校時代美術部だったというのに一度も人を描いたことがない。
描くのはライオン、ワシ、龍などのいかにもスカジャンの背中にド派手に描かれていそうな生き物か(可愛らしい絵は描けなかった)、山や川の風景画だった。
ドイツが好きなのでドイツの景色を描くことが多かった。ノイシュバンシュタイン城やローテンブルクとか。ドイツらしい家をジオラマで作ったこともある。noteのアイコンにしている犬と、川も作って、理想郷をジオラマで創り出していた。

小学生時代はマンガ家になりたかったが、主人公はムーミンとかドラえもんに似た、人ならざる生き物だったし。とことん人が描けなかったし、描く気も、発想もなかった。

10円玉が旅する話を絵本にして教室に置いてもらっていたら、クラスメイトに好評で嬉しくなった記憶がある。あとはムシキング全盛期だったのでカブトムシのマンガを描いて、これもクラスメイトから見てもらえてワクワクした。

私は詳細なストーリーを考えていなかったと思う。私の意思に関係なく、カブトムシが喋り出すのだ。いつもそうではないから多少は流れを考慮する部分があったはずだけど。


例えば前回書いた文章「女の悩み」だと、
「月光」「鈍い」「樹皮」という単語使って何か文章作ろうと思い立った
→そうしたら勝手に甲虫が喋り出してストーリーっぽくなった
→女の悩みってタイトルでいけるかなって
→事前に全く考えてなかったけど情景ができた

わずか数分〝降ってくる〟感覚が最高だった。ちっとも考えていない。ただ感じた。
Don't think, feel.

幼稚園まで遡れば、まああの頃の絵本は人以外がメインの絵本が多い印象があるので私だけではないかもしれないけれど、あおむしだったり恐竜だったりが主人公だった。そしてそれが普通だった。人のいない世界。


私には、人が風景に見える。人に興味なさそう、と言われることも。
風とか水の音とか鳥とか、そうしたものたちの方が親しく感じられる。むしろ他の人が人に興味があるらしいことが不思議だ。


中学時代の修学旅行で、京都へ行った。寺の名前も覚えていないが、私は心惹かれる光景があったので立ち止まった。それは無言で訴えかけるような自然だったのだ。

班での集団行動をして分単位のスケジュールで動かなければならない場だったそうで、後で散々怒りを食らった。班員から無視されてその後の旅行では気まずさをどう巻き返すかが主題になってしまった。それでも私はあの景色で立ち尽くした数分間が尊くて、人から怒られようがバスが私を置いて発車しようが構わなかった。

京都が美しい、というのならわざわざ修学旅行の集団行動で忙しなく駆け回らずに、終日自由行動にさせてくれればいいのに。そうしたら思う存分、半日でもあの美しさに呑まれて幸福でいられた。理不尽な集団行動は中学校の敷地内だけで充分だ。京都の自然を侵すのは横暴だと思う。

私は天文学とか星座に全然詳しくないので名称などは知らないけれど、星にはスッと呼ばれるような気になることがある。マラルメの芸術的願望のように、星座と詩が逆転して創造できたら素敵だ。

以前書いた詩(と呼ぶかわからないけど詩的な文章)でも急に降ってきたものがあって、そのときの開放感、幸福感、あの救いの来た感じ、純粋に魂が呼応した心地、ときたらそれまでの鬱的な日常を一息に消し去るものだった。
そんな風に声が聴こえてくるといいな。

#エッセイ #哲学

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