暴動ではなく革命

あらゆる面で真逆な友人がいる。

とはnoteで繰り返し書いたけれど、どれだけ言っても書いても足らないほど、あまりに違うので、今回もまた語らずにはいられない。


どれほど彼女と私が違うかというと、例えば私が大量出血して彼女の血を輸血するとなったとして、血液型としては問題ないのだけど、あまりに異質な存在なものだから管が血を届けた瞬間に私の神経は破裂してしまうかもしれないくらいだ。内側から爆発するに違いないのだ。

自分と真反対な主張をされたらきっとイラっとくるものがあるだろう。普通、の姿勢はそれでいいのだろう。
なのに彼女に対しては、暴動というより革命だ。抑えつけなきゃならないとか潰さないといけないとか、疎ましく思うとかではなくて、圧倒的に突き動かされてそれは必然で受け入れなきゃならないと悟るような、革命なのだ。

好きな人ができた、と言う彼女の話を聞いて、その理由を尋ねると。顔!と正々堂々言い切る。私は唖然とする。躊躇いがちに、それって視覚情報ということ?と聞いてみる。そうだね、ってまあそうだよね。

一ヶ月前彼女が別の男性と付き合っていたとき、彼氏さんが彼女と付き合った理由が顔!だったそうで、彼女はじゃあ私がもし交通事故で顔面ケガしたらもう好きじゃなくなっちゃうのかなあ、なんて乙女かつ正当な意見を述べていたのに、おい結局君も好きになる理由、顔!っておいおいおい。
潔く外見を好きな理由として言い切るところはもはや惚れ惚れする。

外見を重視しないどころか、「好き」に理由づけすることだって嫌いな私だけど、目の前の彼女の発言にはもどかしさも吹っ飛ぶ。誠心誠意、とはいかずとも、だってあまりに理解の範疇を超えていて実感としてわからないから、それでも、恋愛頑張ってね、と思う。

その応援の中には随分嫉妬も混じっているけれど、それは私の中に秘めておく。彼女への嫉妬なのだか得体の知れない感情?感覚?魂の叫びとでも言おうか、そんなものは彼女と共に飲むカクテルと一緒に飲み干してさっさと排出されればいいのに、消化不良の鉱物みたいにいつまでも器官に踏みとどまる、それどころか飲み干せずつっかえて、うまく呼吸ができないくらいだ。

彼女と一緒に映画を観ているときは、体が自分のものじゃないみたいだ。疼く。燃える。このもどかしさ、ムズムズはなんなのだ。幽体離脱だってもっとスラリと行われそうだし、ポケモンが進化するときだってここまでの違和感はないんじゃないか。

我慢できている私はなんだかんだ理性的人間を演じられているじゃんかと、そっと自画自賛する。彼女に触れられないのは自分の勇気のなさのせいだとしても、彼女に触れない現実を自分勝手に肯定するしか術がない。

映画館という感覚が研ぎ澄まされた真っ暗な空間でちょっと体を動かせば触れるほど真隣で自分とは全然違う生命体である彼女が息をしている。もしかしたらこれ、エゲツなく神秘だ。
宇宙に地球とソックリな、でも全く別の惑星があるらしいぞ、と知って一喜一憂する宇宙飛行士の気持ちってこんなんなのかなあ。

彼女に感じるものは複雑過ぎて何を言っても言葉の惨めさが露呈するだけだ。
喜び、哀しみ、焦燥、嫉妬、尊敬、無関心、反発心、好意、信頼、寂しさ、性欲、敵意、郷愁、、。

そもそも感じる、といって良いのかもわからない。ひょっとして私の感覚たるものはもうとっくに麻痺しているんじゃないのか。心が痙攣した名残で、まだ機能している、よって正常だ、と勘違いしているだけじゃないのか。

映画の趣味だってまるきり違うのに、それでも私は映画に誘われたら喜びが爆発したように嬉しい。私が犬なら尻尾を振り過ぎて、はち切れているかもしれない。普段一人では観に行かないジャンルの映画だから、これもまた新たな冒険だと思って快く料金を払う。

あるとき二本立ての映画を観た。お互いの感想が全然違うものだから、第三者からしたら同じ映画の感想を言い合っているとは思えないだろう。私は二本目の映画が好きだったと言い、彼女は一本目の方が良かったと言う。

そもそも私はエンディングロール終了直後にすぐさま感想を言い出すのが嫌いなのだった。余韻に浸ってしばらく無言でいたい。
けれども彼女は館内の誰より早く感想をまくし立てたいらしく、私もそれに付き合う。こんな風に巻き込まれることは彼女でなかったら許せなかったかもしれない。というのに、彼女だからこそ心地よく感じられて、彼女のペースに順応していくのが大好きだ。

感性が違いすぎるものだから、好きだと言う対象があったとしても見方がまた全然違う。

私も彼女も「太宰治が好き」ということで、私は出会いたての頃親近感を持った。
実際は太宰を読んでの受け方が驚くほど違った。太宰は自分のことばかり心配しているフリをして実際のところ「他者しかいない」ような小説を書く、ように思う。彼女はその他者しかいない、繊細過ぎる太宰の日常描写に共感したらしい。
これが、私にはさっぱりわからなかった。私は愛と死に向き合ってボロボロになりながらもどこか勇ましい太宰の描写が好きで、だから日常の些細な描写に関しては微塵も共感はしていないし、彼女のように立ち止まって考えようともしなかった。

本当は何も共有できていないのではないか、というか、わかり合うなんて到底できない!と感じることは多々ある。
大事なはずの将来の話だってそうなのだから。

彼女が教員になりたくて、そのために教職や塾講を頑張っているのは初期からずっと知っていた。応援?……私は応援しているのかしていないのかもわからない。

彼女が夢を叶えるのは素晴らしいことに思えるけれど、現実的に、もし彼女が自分の担任の先生だったら猛烈にイヤだろうと思う。だから君の生徒にも子供にもなりたくないなあ、というぼやきは本人の前でしたし。

(それどころか私が男性だったところで、彼氏にも旦那にもなりたくないだろうしそれは無理な話だ。恋愛話を彼女から聞くとき、彼女側に立って話を聞いてはいるけれど、だいぶ男性側にも同情したい気分になるものだ。)

単に合わないから私の担任になってほしくないなという想像をするわけではない。

私が自身のセクシュアリティをカミングアウトして一年以上経った頃のことだ。
彼女は突然「ところで、アセクシャルとバイセクシャルって同じなの?」と言い出した。

私はまあびっくり仰天した。え、えーと今さら…? 何度もこういう話してきたと思うんだけど。アセクシャルは無性愛者だし、バイは男女ともに好きになるってことだし、方向性は真逆だと思うのだけどえーー。

もし勇気を振り絞ってカミングアウトしてきた生徒に対して一年越しにそんな質問投げたら、この一年先生は全く理解しないで頷いて同情するフリしてただけだったのか、と生徒は失望どころか絶対的な絶望を抱いて自殺してしまうかもしれないぞ。そして後から私のせいで生徒が自殺してしまったのだのなんだって太宰治みたいな嘆き方したら、生徒に死後も恨まれちゃうぞ。

でも知ったか振りはせずにそこで悪気もなくそんな質問投げ返すあたり、予期せず流星群が降り注いできたみたいな、目の覚める心地になる。なんだこりゃ。

逆に私が、夢とか今期やりたいことを言ってみたところで、彼女には伝わっていないことはわかる。

「この大学でやることなくなっちゃったし、名古屋の大学教授に会って、魂についてもっと向き合いたい。日本よりはドイツに魂の行くべきところがあると感じるし、ドイツ留学は楽しみ。肯定的感情ばかりで成り立つ期待ではないけどね。所属をなくしたくて、サークルはすべて辞めた」
なんてことを、サークル幹事長の彼女に言っても大きなクエスチョンマークが浮かぶだけだ。

理解不能すぎるので、お互いにまともな質問をすることもできない。誰と過ごすよりも無益な時間なのだと思う。発展性がないから。

この異質な存在をどうトチ狂ったら「好き」になるのかは、ミステリー作家にも解決できない。精神に異常を来したみたいに、私はどうしようもなく彼女が、おそらく、だけど確実に、好きなのだ。好きだとしか表現できない私はなんて無力なんだろう。

ただし彼女を「好き」だと言おうとも、これだけ違うものだから長時間ずっと一緒にいるということはできない。

シェアハウスしようよという案が出た時期ってお互い消去法過ぎない?発狂不可避だとわかっているじゃないの。

そう、わかっていても私は彼女が不仲な両親と別居するのをサポートしたくて、私一人でも不動産屋に家の相談をしに行ったり資料を集めたりした。

違い過ぎることについて一部触れるだけのはずが語り出したら止まらなくなるので、この辺で終わりにしなきゃならない。

こんな風に彼女のことを考えて、まるでそれ自体別の生き物であるかのように涙が零れ落ちているという謎に頭を捻っているタイミングで、彼女から通知がきた。彼女のことを考えていない時間はないのだから、ちょうど考えているタイミングで、なんて無闇に運命感じちゃってる感を押し出す必要は全くないけれど。

反発する引力がある。彼女といるときも、別れた後も、喪失感が半端ない。ちっともまとまりのない文章。感情。関係。

#エッセイ #友人

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