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日本橋

大塚愛のさくらんぼを従姉妹の母の車内でガンガン聴いていた小学生の頃、さくらんぼと言えば決まって二つで一つだったし、一個や三個以上のさくらんぼは怪奇現象としてイメージされることすらなかった。

私の半歩前を歩くこの人は、私がムシキングでレアカードが出ずにふくれっ面をしてその車内に揺られていたのと同じ時代には既に、ゴルフを嗜みビールはギネスで六本木や日本橋を庭としていた。

その方というのはバイト先の常連さんで、俺の頃は先生や年配の人が若い子らを連れて街を探索するのなんて当たり前だったんだよ、今の時代じゃあり得ないんだろ、どこか行こうや、とギネスを飲みながら話しかけてくださったので、その今度が今日実現したのだ。

全てがすべて贅沢品で、お腹いっぱいの質が違った。寄り道する店は揃いも揃って、新時代の宇宙船に似た建物だった。
その方は、前回来たときと全然違うなあと感嘆して、目当ての庖丁屋に入った。展示される庖丁やフライパンは美術展と見間違えるほど壊れるギリギリの完成美を保っていた。日本橋は、彼の何気ない呟きを愛しいと思わなければ、空気に亀裂が入る街になっていた。
立ち寄った果物屋では、本物とかけ離れた真っ赤っかの苺が販売されている。精巧なマネキンにしか見えなかったが、それこそが本物の苺らしかった。

高層ビルの真ん中に秘境じみた神社があって、凍える寒さの中だというのに冷水で清め御祈りをした。
日本の中心としての命名が驚くくらい、日本橋は異郷であった。その方は一介の老人で、私は一介の餓鬼に過ぎなかった。財力には底があり、若さには賞味期限がある。千と千尋の神隠しを見ておくべきだった、と不意に後悔に襲われた。

#エッセイ #小説

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