騙されてもいいや
二人で夜道を歩いていた。まんまるの満月は妙に紅く染まっていて、ドラキュラが出てきてもおかしくなかった。
きっと愛し合っていたにも関わらず、私たちは手を繋ぐでもなくキスするでもなく、お互いが以前した男とのセックスの話をしていた。
内に秘めたもので噛み付く牙を私は彼女に対して押しとどめていて、それどころかすっかり神聖な気分にさせられていた。その頃には私は好きな相手の体験談に血迷った嫉妬を禁じることが可能なほど、諦念によるオトナっぽさを手に入れていた。
淡々としていた。これほど好きな相手と隣り合って歩いているというのに、一体どこからどうでもよかったはずのセックスの話をし出したものか記憶はない。
そのとき私は彼女に一種の不信を抱いた。こんなことがあるだろうか。家電屋で出会った初対面の男にのこのこついて行って、そんな妙な部屋でセックスすることが現実にあり得るだろうかと。
最初から知っていたことがある。彼女は、役者なのだ。今の物語は彼女の作り話に過ぎず、私だけ赤裸々に語っておいて、騙されたのではないか。あの話はあんまり突飛に完成されすぎている。それでいて妙に美しい。
けれどもその不信感は一瞬のものだった。縮れた雲が真っ赤な満月の前で効力を成さないのと同じことだ。彼女自身の愛の前で、ほんの少し欺かれたかもしれないことくらい、何でもないことなのだ。
私は彼女を愛している。彼女は私を大切にしてくれている。それが真理だ。
ときどきあまりに美しく、ドラマチックであり、現実離れしている。そういう出来事は往々にしてあった。それくらい、なんだ。きっと互いに、不幸を物語にしたいがために余計な装飾までしているのだ。それが、どうした。
話の細微な点まで事実であるか否かは求めないでいよう。語り口における創造力に、敬意と愛があればいい。彼女が昔誰とセックスしたか、あるいはその話が嘘か本当か、それは私に知れることではなかった。「それでも好きだよ」 私が伝えたいのはそれだけだった。
私は彼女を愛している。彼女は私を大切にしてくれている。それが真理だ。
愛を以って読者を騙すのが目標です。
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