自由を語るな

旅が好き。と言うと、嘘になるのだと最近気づいた。

純粋に好きと言うより、好きだと思わなきゃやっていけないから好き、なのかもしれなくて。

「今此処にいる」ことに我慢できず、逃れなきゃならないような、圧倒的に、自分の居場所は此処ではない、と内側が疼くから、当てもなく彷徨う必要がある。旅したいのではなく、旅そのものが生き様になっているだけだ。

常に此処じゃ駄目だ、自分が腐る、という強迫観念にも近いものがある。
だから旅しているときでさえも、「…旅したい」と呟いていて、自分で自分に驚く。今まさに望んでいる状況にいるはずなのに、それでもなぜ? 自分は何処へ向かっているのだろう、どうしたいのだろう。

日本人のパスポート所有率は24%だそうで、世界の国々に行くには最高ランクの素晴らしいパスポートだというのに、自国以外に興味を持って行こうとする人が少な過ぎる、という話を聞いた。

そしてそれを、当時好きな人に言ってみた。
「パスポート持ってないなら作れば?」
「外国語勉強するなら、その国に行って使った方がずっとできるようになるよ」
自分の経験も交えて語り、好きな旅の話だから普段以上に私は熱くなっていた。

私は知らなかった。
海外に行きたがらない人間の中には、行きたくても行けない人だっているのだという、当たり前の事実を見過ごしていた。

彼女は、私の好きな人は、意欲がないとか視野が狭いのではなくて、行きたくても行けない性質の人だったのだ。

けれどいちいち自分の障害を説明する必要性を感じなかったからだろう(私は彼女にとって取るに足らない相手だったから、自身の問題を語るに値しないし、いちいち言うことでもないと見なされていたのかもしれない、それはわからない)、お金がないからとか、日本で勉強するから大丈夫とか、こじつけた理由で彼女は、「海外に行くべき」という私の話を放棄したがっていたのだと思う。
その真意まで察することができない私は、彼女が「海外に行く気はない」と言った後も、「行った方がいいよ」と主張を繰り返した。彼女から見たら、強情すぎて付き合いきれない、彼女の事情を顧みないはた迷惑なヤツに、私は映っただろうに。

私自身はというと、身体的な事情からしばらく飛行機に乗れなかったし、親元を離れることを過剰に心配された。旅したくてもできない理由があった。

その時期が過ぎ去り、自分は自由を手に入れた、と思った。自由を酷使するほどに、私は好きなようにした。

そうすると、奇妙なパラドックスに陥る。

「自由でなければならない」という束縛にあう。

一見「自由でない」と見える状況を、望む人だっているのに。「保守派もいるから世の中が成り立つ」という現実が見えなくなってしまった。

好きなときに好きな場所で好きなことをする状況は、まさに自由だという気がする。

けれども、そうでなければ生きていけないのだとしたら、果たして「自由」だと言えるのか。
どこにも居場所が見出せない私からしたら、自分の定めた場所で懸命に生き抜く人がカッコいいし、羨ましいとも思う。

そんな素朴な感想が、あのとき好きな人に伝えられなかった。
自由を振りかざす暴力は、あまりに無邪気で、知らぬ間に人を傷つける。本当は、彼女が羨ましかった。今いる場所で戦っている彼女は、とても魅力的だったのに。
私にはそういう生き方ができそうもないから。
彼女が旅できないのと同様に、私は定住できない。それを無理にでも肯定するしか、生き抜く術がない。

世界一周したいんだ、と明るく公言することはできる。
けれども、本当に世界一周できてしまったら、何処にも自分の居場所がないという、救いようのない壁にぶつかって、私は生きる気力を喪うだろう。

行きたい行きたいと強固な目標の元に訪れた土地だって、達成されてしまうや否や、ああ此処じゃない、と虚無感に襲われて、何処にいても息苦しい。

終身旅人でいるならば、どこにも落ち着ける場所は見出せないし、深い関係性も築けないという予測はできる。それでもそれしか道がないならば。

私には「ただいま」と言える場所がない。旅行に行くときは、本当は往復のチケットなどいらないと思っている。帰る場所がある、と思えないから。

自由でいいね、を褒め言葉だと思わなきゃ救われなかった。旅が好きです、と言えなきゃ人間を務められなかった。ただそれだけだ。
ノマドがいい、自由がいい。どれだけの密度でそう発せられるだろう。

#エッセイ #旅

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?