何となく死なないために、何となく生きる
歌って、騒いで、飲んで、語って、ちょっとだけ泣いて、そうしてあまり眠れなくて、重たい瞼にも午後の日差しは容赦がない。今日の昼間は気温が三十三度まで上がった。蝉が鳴いていた。二十二歳になってもやっぱり夏は嫌いだった。
私は夏生まれだと話すと、それっぽいねと良く言われる。
かに座の人は、自分の殻の中に入れた人は絶対に守ろうとする人なんだと、友人が教えてくれた。私は占いの類いはほとんど信じないタイプの人間だけど、何となく、それは嬉しいことだった。自分の手の届く範囲のことは、ちゃんと守りたい。それでも時に、どうしようもないくらい、自分の力では到底及ばない距離、時間、心に触れると、目眩がする。埋めようがないもの、言葉なんかでは補填できない事実に。
無力さを誰かに許してほしい訳じゃない。でも、手の届く範囲ってなんだ、といつも考えている。私の腕は二本しかない。しかも羽にも盾にもならない、ただの腕だ。私の目だって二つしかない。0.1にも満たない視力では、大事なものどころか街明かりだって朧げだ。私の心臓も一つしかない。どんなに誰かを想ったって、その誰か分の鼓動は刻めない。大事なものの一つが殻から飛び出して行って、真っ逆さまに落ちて行ったとして、追いかければ、それ以外のものは殻の外に置き去りになる。じゃあ見ているだけしかできないのか、この両手は、両目は、血流は、祈ることしかできないのか。守るってなんだ。手の届く範囲って一体なんだ。
分からないけど、アスファルトに寝転んで見る月が一番綺麗な気がする。
祈りは決して無力じゃないという根拠になりたくて、私は今日も詩を書いている。
眠れない夜に怯えるあなたも、
傷つきながら信じることを辞めないあなたも、
泣き方がちょっと下手になってしまったあなたも、
きっと大丈夫。だって無力は弱さの証明じゃない。
正しさは、強さの免罪符じゃない。
理由も意味も、わざわざ探して付けるものじゃない。流れ続けるものをここに留めるためには、同じ速度で走り続けるしかなかった。ただそれだけのことで、でもそんな風に振り回される自分の生き方が、私はそんなに嫌いじゃない。だって振り回された遠心力の分だけ、私の世界は、こんなにも鮮やかだった。私の夜は、こんなにも優しかった。
生きていく、生きていくさ、せめて夏を好きになるまで。
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