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開業や起業にむけたマインド②

どうも久合田です。前記事のマインド①では人生の予定表を作って見える化するといいですよとお話を締めました。

さてあらためて、マインドセットを定義しましょう。マインドセットとは、経験、教育、先入観などから形成される思考様式、心理状態、暗黙の了解事項、思い込み(パラダイム)、価値観、信念などがこれに含まれます。

前回や今回も通じてお話しているのは、自身の心理的な部分や価値観・信念を多分に含む話ですので、【マインドセットとは?】みたいな話でないことはご了承くださいね。だらだらの文章で申し訳ありませんが、さらっと読みすすめてください(笑)

もしも要点だけでよろしければ最終部分に動画を添付しておきますので先にそちらを見てください!!


さて今回のマインド②はどんな話かと言うと、各人生フェイズでどのような思考過程を経て開業に至ったのかをお話ししてまいります。



理学療法学生時代のマインドセット

『♪♪ふーりーむくなよーふりむくなよー♪♪』

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国立を目指して、高校サッカーを満喫。結果としては県内で上位に食い込めたものの代表になることは叶わず。。。やはり私立高校勢が強かった。。。(遠い目1)

ちなみに中学生の時は全国大会に出場することができました。一学年上の世代で試合に出させていただきました。当時のエースは橋本先輩(桐蔭高校→鹿島アントラーズで一時期10番背負っていた)でした(遠い目2)

当時のサッカー雑誌にも取り上げられたことが自慢(笑)

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はい。思い出話はこれくらいにして。

高校までは頭の中まで筋肉と根性で出来ていました。進路について何も考えていませんでしたが、唯一、ずっと思っていたのはスーツを着て満員電車に揺られていく人生は嫌だなと言う想い。

自身がスポーツを通じてお世話になった人を癒すセラピストの方々にあこがれを抱き運動バカが一念発起して医療系受験へ。運よく(根性だけはあったのか)気合で鍼灸の3年生の専門学校に合格。無難に卒業して資格取得するに至った訳です。

鍼灸専門学校時代もいろいろなドラマはありましたが…(遠い目3)割愛します。

鍼灸取得してそのままスポーツ医療の現場へと言う想いと、リハビリテーション分野への興味とのはざまで揺れていました。結果的に、国家試験対策をしながら受験勉強も同時進行して、理学療法の学校に受験→合格します(気合と根性と体力はあった)。

PT学生時代では、すでに国家資格を有するセラピストでありました。故に、学生に甘んじることなく研鑽を続けるため、近隣の鍼灸や柔整の治療院をアポなしで回り続け、働き先を見つけます。夕方5時以降は接骨院で経験と実益も兼ねたパートタイマーとして働くことに。

週末は鍼灸学生の頃から継続していた、自身が卒業した高校のサッカー部にてスポーツトレーナー(もどき)とコーチと荷物運び等雑用係として大活躍。年中休みなく働いていました。このころは高齢者医療と言うよりは、外傷や整形、スポーツ医療に興味がありその方向に進むものだと思っていました。

忙しい毎日を送る中で転帰が訪れます。

理学療法の学校では鍼灸学校になかった【臨床実習】と言う名の地獄の期間がありました。毎日毎日つるし上げられてレポートやら課題やらを言い渡されて延々と睡眠不足の続く魔の期間(笑)です。しかし、この経験が、後の自分を作ることとなったことは言うまでもありません。

実習の場で得た一番の経験は、自身が担当した大腿骨頸部骨折後のリハで担当したおばーちゃんのケースです。

実習では担当したケースについてレポートを作成して発表をするのですが、そのまとめる過程でいろいろな治療にかかわる論文や方法論を学びました。とりわけ、中でも自分にとって衝撃であったのが、日本の社会情勢や高齢者の今後についてのデータでした。

少子高齢化によるリハ医療需要が伸びることや、高齢者医療の重要性を説いた論文や文献を読み、自身が進むべき道が見えた瞬間でありました。


この時期のマインドセットは今でも脈々と受け継がれている想いで、

人と同じ時間しか使わなかったらダメだ。自分は出来損ないだから、他者の倍やらないとダメだ。寝る間も惜しめ。動け動け。

でした。実際、体力も一番あったころで、3日くらい徹夜続けても大丈夫でした(笑)


一万時間の法則と言うのをご存知でしょうか?

マルコム・グラッドウェル氏の著書「天才! 成功する人々の法則」で紹介されて広く知られることになった1万時間ルールですが「一流・天才と呼ばれる人は、1万時間の厳しい練習に打ち込んでいる」というものです。

一万時間本当に必要か否かについては賛否両論があるようですが、少なくとも一つのスキルを極めるには相応の時間が必要であることは間違えないです。

マルコムさんの著書は読んだことはありません。しかし私は圧倒的な時間が必要であることを意識して、当時から動き回っていました。




病院勤務時代のマインドセット

結論から言うとこのようなマインドでいました。

石の上に3年?5年?? 経験は自ら求めるんだ!止まってはダメだ。

最初に勤めた場所は『療養・介護病棟と通所・訪問リハ、地域包括支援サンタ―』を主事業として行っている病院でした。今までの流れですとスポーツ系に飛び込んだのではないの?と言われてしまいそうですが、そうでもないのです。

実習中に気が付いた高齢者医療の道。もっと大きなマーケットがあるじゃないかと。自分を必要としてくれる人がどんどん増えていくなんて凄くないかと(笑)。高齢者医療に携わり社会の要請にこたえることで、自身の想いや志が満足できると考えて、いわゆる老人病院に勤務を始めます。

しかし、当時の高齢者医療というか高齢者ケアはまだ未熟でした。今では介護保険による手厚いサービスが用意されていますが(私は手厚いと思っています)、当時はまだケアマネも少なく地域でのケアはまだまだでした。詳細言及は避けますが、拘縮や褥瘡当たり前、いじめや虐待もありました。

そこでは、キラキラしていた自分が嫌になる経験を積みました。このような経験が、得も知れない介護系スタッフにあるダークな心につながるんだと思います・・・(感想)。

しかし、このようなことではダメだ。救える人も救うことが出来ない(少々おごってた考えですが)!と一念発起。

現場を変えるには自分が医療の流れに深く精通してスキルも高くないと何も変わらない!!と一念発起し、地域の急性期医療を担う総合病院へ転職します。そして急性期の総合病院では、老人病院では経験することが出来なかった沢山の学びを得ることとなります。

まずは救急車で運ばれてきた人のリハビリを入院翌日から担当すると言う(一歩間違えたら亡くなってしまうような人)センセーショナルな現実に打ちのめされます。

そうなんです。病気や病態を理解していないとできない領域なんですね。老人病院では症状が十分に落ち着いた患者さんが対象でした。急性期病院では全く逆の状態。症状も目まぐるしく変わり、その瞬間の対応が求められます。一歩間違えたらと思うと・・・。そんな状況のリハでした。

ちなみに私の専門は心臓病の方のリハビリテーションです。心臓の病気は運動とは程遠い存在に思えるやもしれませんが、実は一番運動が必要な病気なのです。詳細は別のタイミングに。

この病院では一現場スタッフから→マネージメントもしなければならない役職もいただき、現場運営から部署運営まで経験。さらには当時の目玉であった『回復期リハビリテーション病棟』の立ち上げにもかかわることが出来ました。

きっと鍼灸師としてキャリアを積んでい居たら絶対に得ることが出来なかった経験が積むことが出来ました。目の前で患者さんがなくなってしまったことや、訴訟にかかわる案件を担当したりと様々な意味でリスク管理が大事であることを痛感しました。


この時期は、雇われ職員として、めいいっぱい働いていました。そして承認欲求の奴隷で誰かに認めてもらいたくて仕方がなかった時期でもありました。みとめてほしい~~と。

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仕事に疲れを覚え、リアルに鬱っぽくもなり、自分の将来を真面目に考えた時期でもあります。石の上にも3年?と言うけど、気が付けば10年近くここでキャリアを積んでいました。

承認欲求にとらわれて、将来設計を怠ってしまっていましたが、ここでもエクセルで作った未来の年表を見返すこととなります。

『石の上にいつまでいるんだ??』

自身で作った未来の予定表を見返し、自分の進むべき道が見えてきたのでした。



介護保険事業所勤務時代のマインドセット

救急車で運ばれてきた患者さんが、回復期リハビリテーション病棟で在宅復帰の準備をして、はれて自宅へ帰ります。当時の私はそのあとのリハビリテーションにはかかわることはありません。

あるとき、心臓病を患い退院した患者さんが再入院してきました。せっかく入院期リハで体力を改善させ疾病がコントロールできて自宅へ帰れたにもかかわらず、病状が悪化したのです。

なぜ、再入院したのか?どうして?と悩み考えました。

いろいろな原因があると思いましたが、一番は在宅期を支える医療的サービス不足があると考え、介護の業界へ足を進めました。

また、より地域に近い顔の見える連携作りをすることで将来的な独立につなげることができるとも考えての仕事と地域の選択をしました。

『介護老人保健施設』どんな施設かは下記リンク。


私が勤めたのは鎌倉にある徳洲会と言う医療法人のサテライト事業所でした。介護保険はリハビリテーション前置主義と言われています。まさに自身にうってつけだと考えての事業所選び。

しかし、私は介護保険の知識は正直ほぼない状態で入職したので、最初の一年は勉強の連続。新しい知識と経験を積む毎日で忙しく、充実した日々を過ごしました。

そして、2年目には新規老健の立ち上げに携わり法人内でも新しい事業所として船出をしたのでした。新規老健立ち上げの際には地域の連携機関や介護保険事業所との顔合わせ、開所式などを通じて普段では話もかなわないような人たちとのつながりが持てました。

新規老健立ち上げ、稼働率アップ、新規訪問リハ立ち上げと次々と課題を自身で上げて取り組みました。当時は老人保健施設では珍しく、在宅復帰率を計測していましたが常に60%以上をキープできていたように記憶しています。のちに法改定があって、在宅復帰率が老健施設の施設基準に盛り込まれて介護報酬格差が付くこととなりましたので先駆的な取り組みも行っておりました。さらに、法人内部のリハビリテーション部会にて介護保険部門のとりまとめ的な役割もいただき、全国の老健や通所リハなどのデータをグラフ化し本部へ提出したり、部会内の介護保険部門として取り決めを作成したりと本当に多くの経験を積ませていただきました。

ちなみにこの徳洲会と言う法人はとってもすごい法人です。また別の機会にお話をしたいなぁと思います。



**戦略的にキャリアやスキルを作る**


病院組織の井の中にいると『地域で開業』には距離があると考えて、介護保険事業での認知の獲得を目指しました。なかでも地域でリハビリテーションを推進する役割のある老人保健施設へ。さらに責任者や立ち上げという経験を進んで得ることを求めての転職でした。

雇われだろうが、人・もの・金の動きを意識し、現場の運営を意識すること。

今となっては当たり前に思えます。しかし、病院で働いていた当時の自分は雇われ意識が強く、【指示待ち症候群】に陥っていたように感じます。一念発起して自分自身の甘えと対峙して自己変革を進めた時期でした。

介護保険事業に携わることと、働く地域を選択することは、自身の将来を見据えていてのことでした。私自身、家族のいる身ですので簡単に開業しましょうとはいきません。妻や義父母を安心してもらうためには根拠が必要です。無理ゲーではダメなんですね。そのためには、戦略的にならざるを得なかったのです。

病院から老人保健施設への転職はまさに開業を意識した流れの中での転職。私と同じようなセラピストさんたちが、もしも、何かしら自身の手で始めたいのであれば遠回りの様に見えるかもしれませんが地ならしは必要だと思いますよ。


まとめ

1:人よりも多く考えて行動しよう

2:経験は自ら動いて得よう。石の上にも3年?と疑おう。

3:戦略的にスキルをつけよう

でした。まとめるとこんなにシンプル(笑)。最後までお付き合いいただきましてありがとうございましたm(__)m





★クゴリハ鍼灸院/クゴリハリキューフィジオ★
院長:久合田浩幸
資格:鍼灸師、理学療法士
心臓リハビリテーション指導士、AHAヘルスプロバイダー、福祉住環境コーディネーター、介護予防推進リーダー、地域包括ケア推進リーダー、YNSA上級治療師、
学会発表多数あり、共著著書あり。
<運営:KUGO-REHA LLC>

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どうも久合田です。鍼灸院の経営の傍らでリハビリテーションの振興をコツコツ行っています。よろしければフォロー下しますと喜びます(*^^)v