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『黒博物館 ゴーストアンドレディ』キャラクター紹介 館報に載せられなかった実在人物から

はじめに

『黒博物館』の世界をガイドする本を書いた際、数多い実在の登場キャラクターたち全員を載せることができなかったため、こちらで未掲載の人物たちを紹介します。

「こんなキャラクターまで登場させていたの!」というぐらいに漫画は描き込まれていますので、漫画を楽しむための一助としてお読みいただければ幸いです。

クリミア戦争前のナイチンゲールと家族との確執についても、長く書きすぎて削った箇所が多かったため以下にまとめました。こちらをお読みいただければ、漫画の中でフローが死を願い、また両親がフローを傷つける「生霊」の描写が史実を描き出すものだと感じられると思います。

作中に登場しているキャラクター

■アレクサンダー・マグリガー(1810-1855)上巻p.201

クリミアに派遣されたフローに早い段階から支援を仰いで協力した上級医師で、フローの手紙に何度も言及された。兵舎病院の増設のための改修を行う際にも、フローの協力者となった。

ソワイエが初めてスクタリの兵舎病院に来た時にも、フローがすぐにマグリガーの名前をあげてソワイエに伝えるなど、最も協力的な現場の医師として、常に身近にあった。

戦争中、唯一フローがその影響力を人事に使った人物で、本来より2年早く病院の「総監察官代理」に昇進させるなど、信頼を寄せていた。

フローが本国へ送った病院運営改善提案の中では、病院の衛生環境を保つために必要なホテルの支配人のようなポジションが必要と述べた際に、「現在はフローかマクリガー医師が担っている」と名前を挙げるほどだった。

しかし、その彼でさえも、ホールが派遣したローソンがスクタリの病院に着任してからは圧力に屈したとフローは記している。

個人的には、マグリガー医師がナイチンゲールの戦後にどう関わったのか気になっていたが、マグリガーはクリミア戦争中の1855年11月に亡くなっている。原因は、兵員補充のために政府が雇ったドイツ人傭兵団を病院倉庫に収容した際に発生したコレラだった。

クックの公式伝記に彼の死についての言及はなく、セシル・ウーダム=スミス版でその死が確認できた。

■ジョン・キャメロン・マクドナルド(1822-1889) 下巻p.31

『タイムズ』のビジネスマネージャーのポジションにあり、クリミアでの傷病兵が置かれた苦境を報じた『タイムズ』の報道直後に立ち上がった「タイムズ基金」の運用者として、現地に派遣された。

当初はフローを敵対勢力と見做していたが、フローの友人が『タイムズ』記者の妻だった繋がりで、そこから編集長を介しての紹介を経てフローと会うことになり、理解者・協力者となった。

フローと共同し、軍の兵站・調達の不足を補うための物資の買い付けなどを行なった。報道者として、病床を見舞うフローの様子も伝えている。

■シドニー・ゴドルフィン・オズボーン(1808-1889)上巻p.200

クリミアへ自発的に従軍した牧師で、男爵家の出身。シドニー・ハーバートの友人で、自発的にクリミアへ渡る。現地ではフローの理解者として彼女と共に入院患者の支援を行った。

当初は「タイムズ基金」の管理者になる話もあったことなどから、「タイムズ基金」を主導したマクドナルドと共に働き、病院の物資確保に努めた。

病院の機能不全を告発し、毛布やシャツだけではなく、手術台が不足していることなども指摘した『スクタリとその病院』を1855年に出版した。その非難は「すべてが整っている」と述べた駐コンスタンティノープル大使ストラトフォードも対象とした。

本人が作中で「牧師なんですが」と述べているように、従軍牧師として宗教面でのサポートを行おうとした。しかし、そうした行いは他の人間でも行えるが、物資の確保や手配の最適化は自分にしかできないと、そちらにフォーカスした。

彼によると、海軍の病院は設備が整っていたとのこと(陸軍とは規模が違うとはいえ)。

■アウグスタス・スタフォード(1811-1857) 上巻p.200

フローの支持者となった下院議員。国会の休会中にクリミアに訪問し、現地の悲惨な状況を自分の目で確かめた、数少ない国会議員。前線にも十日ほど滞在している。

軍病院に滞在時、汚れていた洗面所の掃除を軍医に依頼するも果たされず、費用を受け持つとしたがそれも拒否され、軍病院のセクショナリズムの洗礼を早々に浴びた。

オズボーン牧師の友人となり、傷病兵たちの代理として、家族や友人に手紙を書くというボランティアに協力した。

■イライザ・ロバーツ(1802-1878) 下巻p.140(?)

フローが信頼を寄せて現場を任せた看護婦長。労働者階級出身で、若い頃から看護助手として病院での勤務経験を重ねて、23年を聖トマス病院で看護師長を務めた。看護師の中では最も医療の知識・経験があると評価され、フローは外科医からの評価も高いとした。

技術だけではなく、フローがそれ以上に求めた看護師としての義務を果たす点や、患者への献身、誠実さも褒め称え、看護領域については「ナイチンゲールの支柱」となっていた。

見舞いに来た総司令官ラグラン卿の入室を当初は拒絶したことも、史実となる。

労働者階級出身で教育を受ける機会は少なく、フローとの間には階級的な断絶もあったとされる。文字も読めず、社交マナーにも欠けていたが、突出した能力ゆえに、フローは全てを受け入れて頼っていた。

フローがクリミア戦争で遺書を書いた時に後継者として選んだのは、監督者・事務管理でも優秀さを示したショー・スチュワートだったが、ロバーツについても、その先の仕事のための推薦状と金品の遺贈を行いたいと意志を示すなど気にかけていた。

■デヴィッド・フィッツジェラルド 上巻p.189(名前はp.248)

クリミア戦争の英国陸軍主任調達官で、フローに強い抵抗を示した軍医で、直接的に女性看護師のシステムとフローの行動を批判する文書を陸軍省に極秘で送付していた。フローと対立する立場にあった看護師デイビスや、アイルランドのローマ・カトリックのシスター、ブリッジマン尼僧長を評価する姿勢を示し、支援していた。

これは、フローへの対抗意識だけではなく、フィッツジェラルドがアイルランド出身のローマ・カトリックで、同じ出身・宗派だったことも関係していると思われる。

なお、彼が極秘に陸軍省へ報告したフローに対する誹謗・批判文書は実際の話であり、ホールが関係者に送付した。

しかしこの文書はフローの手に渡っており、フローはそれを読んで憤慨している。こうした情報が外部に流出し当人の手に渡るのも、フローが陸軍内部に強いコネクションを有していたことを示すものとなる。

■エリザベス・デイビス(1780-1860) 下巻p.113

クリミアの前線の病院に訪問してきたフローに対して「あなた様も結構ですが 成ろうことなら 女王様に来ていただきとうございました」と述べた老看護師で、これは実在のエピソードとなる。

スクタリに派遣された看護師団の第二陣でやってきた看護師。若い頃は家事使用人をしていたが、世界を航海したデンマーク・ヒル号でのシップ・スチュワードの仕事を務めた。

ハウスキーパーの仕事で家族を看護する経験をもとに、ロンドンのガイ病院で看護師の仕事に就く。そして65歳の時にクリミア戦争の看護師派遣に志願し、メアリー・スタンレーの下でスクタリに来る。

料理人として優秀だったが、規則を破り、お気に入りを優遇したり、将校たちに気前よく振る舞ったりした。挙句、フローが慰問品を享受したり贅沢な食事をしてたりしながら、看護婦には粗末な食事をさせると誹謗した。

第二陣にいたフローが考える「古い看護師」のリーダー的存在だった。1855年1月には、前線となるクリミアの補給拠点バラクラヴァにある病院に同調者を率いて拠点を移した。彼女の上司はホールで、一緒に仕事をしたのはフィッツジェラルドだった。

■メアリー・フランシス・ブリッジマン(1813-1888)  下巻p.153

アイルランドの修道院から第二陣として派遣された修道看護師を率いた修道女で、作中ではイラストのみ登場する。自己主張が強く、声も大きかったらしい。

アイルランドに生まれ、若くして修道院に入り、その後、修道長を立ち上げたり、コレラ蔓延時に救援看護を行ったり、孤児院の創設をしたりと活動を広げた。

フローにとっては「管轄から外れる」「対立するホールの味方をする存在」となり、フローは人間的に評価をしつつ、看護師としての能力や管理能力を評価しなかった。

アイルランドの修道女たちを軸とした資料では、ブリッジマンの管轄にあった修道女たちの日記や世話を受けた軍医などからの評価も高く、食糧や物資の確保なども行った。

アイルランドの修道女たちからすれば、統括権の問題はフローが引き起こしたものに見えていた。ブリッジマンが残した日記によれば、陸軍医師の多くは非国教会のプロテスタントで、修道女たちとの関係も良好だったという。

ただ、フィッツジェラルドはブリッジマンがクーラリの病院からバラクラヴァに来る時、「浪費癖」を持ち込まなければ良いがとの懸念をフローに示しており、党派的に強く支持した点も否めない。

最後までフローとは分かり合えず、陸軍大臣パンミュア卿がフローにパラグラヴァを含めたの管轄権を与えると、アイルランドへ帰国した(ホールやフィッツジェラルドの助言もあったとされる)。

余談ながら、このブリッジマン尼僧長を始めとするアイルランド修道女たちのコマでは、ホールの顔の方が目立っている。

ブリッジマンとフローの対立は当時の宗教事情を解説したこちらを。

そして、深刻な人事問題はこちらを。


■ダンカン・メンジーズ(1803-1875) 上巻p.180(名前はp.203)

スクタリ病院の初期の責任者で、フローの活動を最初に妨害した現場の代表と言える軍医。

『タイムズ』が伝えた病院での物資不足を聞いたスタッフォード下院議員が「何が必要なのか」と問い合わせた際、返事を書いたメンジーズは「すべてが十分な供給を受けて、何も必要はない」と答えた。民間の力を借りることは、軍医たちの面子を潰すことだった。

フローはメンジーズに掃除の許可を得ることから始め、洗濯の品質が低いために洗濯用の家を借りてボイラーを設置する段になると、彼の許可を得て工兵の力を借りた。

12月に負傷者があふれ返って医療崩壊が発生すると、看護師団の協力を受け入れる許可を出した。

後任となったカミングとの間で、どこまで責任を負うべきかが不明確で、適切な動きを行えなかった。

■アレキサンダー・カミング(1790-1858) 下巻p.44(名前はp.46)

医師。フローと同時期にスクタリの病院へ派遣された三人の調査委員の一人で、調査を終えると、病院責任者の地位をメンジーズから継いで、作中では「医官長」と呼ばれる。

消極的なカミングは、自らが「調査委員」として提案した病院改善案を、病院管理者の軍医となった際に「否定して実施しない」という矛盾に陥った。その後、「エイボン号事件」の原因となったローソンが上長となるなど、とにかく環境に振り回された人物だった。

主体的に動かなかったり、フローが頼りとしたマグリガー医師をスクタリから外そうと画策したりしたことをフローは問題視した。カミングと陸軍後方司令官ウィリアム・ポーレット卿が解任されるまで、状況は改善はなされないとフローは見做した。

フローとは、些細な規則でもぶつかった。病人へ提供する骨つき肉を用いたスープを配る際、重さだけで計量するため、骨つき肉が入ると肉の量が不平等になった。そこで骨を外して料理する提案がなされたが、「新しい陸軍の規則を必要とする」として拒絶したエピソードが残っている。

家族・親族

■ウィリアム・エドワード・ナイチンゲール(1794-1874)

フローの父で、鉱山を持つ叔父から財産を相続し、上位の中流階級にある人間として「労働しない」生活をしていた。フローは父が何事も成していないと批判し、工場長か何かをやっていればとも書き残している。

しかし、フローに数学を含めた高い教育を施し、多くの人々との交流の機会を作り、妻よりも早くフローの自立を認めた点では、「フローを世に送り出した」ことが最大の功績とされる。

フローの慈善活動や病院看護を嫌い、否定する発言をしていたが、フローの活動に対して同情をするようになり、独立のための生活費を渡す年金分与を妻に断りなく進めた。ただ、社交中心の生活で浪費を積み重ねるフランシスやフローを追い込むパースとの関わりを早期に諦めており、フローも父と母が理解しあっていないことを見抜いていた。

■フランシス・ナイチンゲール(1789-1890)

フローの母で、フローが看護師の道へ進むのを妨げた最大の要因となる。当時の上流階級の親としてその価値観と行動は普通のことで、むしろそこから外れようとしたフローが特異だったと言えるが、フローへの干渉が異常とも言えるほど強く、執着した。

フローが貧しい人々の暮らしに関心を持ち、その救済へ進もうとしたきっかけは、母フランシスが自身の住むカントリーハウスの近辺の村人たちのために行った慈善活動にあり、本来的には優しい面もあった。

しかし、娘たちの結婚を願い、多くの名士たちと関わる社交界での成功が価値観の中心にあり、自分の思ったことを邪魔されると感情を損ね、頑固で無分別になった。

鷹揚に振る舞う反面、浪費癖もあったともいう。

■フランシス・パルセノープ・ナイチンゲール(1819-1890)

フローの姉で、パースと呼ばれた。若い頃から妹と同じ教育を受けながらも、分かり合えなかった。

社交界に生きようとしない異質な価値観を持つフローを理解できない一方で、多くの立派な人々に高く評価される才能に満ち溢れたフローに対して崇拝の念を抱き、身近に置こうと執着した。

両親に甘やかされた点もあり、フローが自立しようとすると精神的均衡を欠き、病に陥ることを繰り返し、その世話のためにフローを束縛した。

クリミア戦争中はフローの英国での窓口として活動し、フローを支援したいとする多くの人々や負傷兵の家族への対応や寄付品の収集など、熱心なサポートを行なった。

ただ戦後は母ともどもフローが行いたいことの無理解は続き、それでも近くにいる行動をした結果、今度はフローが深刻なストレスを抱え、近くにいることが不健康を招くとして遠ざけられた。

ハリー・ヴァーニー准男爵と結婚したことで母も満足したとされ、本人も結婚後は文筆の才能を発揮した。ヴァーニーも政治家として、クリミア戦争後のフローを助ける一人となる。

公式伝記での評価と異なり、カントリーハウスを管理する妻としての能力は低く、妹たるフローが、ヴァーニー准男爵家に嫁いできた女性(パースの義理の娘)を支援したという。

フローと家族との確執は、以下で解説した。


名称のみ(または未登場ながらも重要人物)

■メアリー・スミス(1798-1889) 下巻p.269で言及

フローの父ウィリアムの妹で、メイ叔母と呼ばれる。夫はフローの母の弟ウィリアム・スミス。

フローの良き理解者として、フローが自立する約束を母フランシスから勝ち取った。家族を英国に残し、ブレースブリッジ夫妻と入れ替わりでクリミアに従軍するフローのサポートに従事し、フローが過ごした忙しい日々を手紙に残している。

メイ叔母の実務能力について、公式伝記では「ミセス・ブレースブリッジは自他ともに認めるフローレンスの雑用係だったが、ミセス・スミスはその後継者として彼女に尽くした」と評価している(『ナイティンゲールその生涯と思想1』)。

戦後も夫婦で献身的にフローを支えたが、1861年頃の手紙ではメイ叔母と訣別があったとフローは手紙に残している。家族を優先したことが理由となり、フローは裏切られたとの想いを強くして、長く交流を絶った。

『黒博物館 ゴーストアンドレディ』作中で晩年のフローが後悔と共に語るのは、この話となる。なお、夫のウィリアムはフローの怒りを買わず、フローが機嫌を損ねた後も手伝いを続けていた。

メイ叔母とは後に和解している。

フローの家には男子がいなかったため、実家のリー・ハーストの屋敷などを含めた財産の多くは、最も近い親族の男子であるメイ叔母の子供が相続した。

■シドニー・ハーバード(1810-1861) 下巻p.35、269など

ローマ滞在中に知り合い、病院看護に携わりたいとしたフローを応援する友人となった。シドニーは妻と共に慈善活動に従事し、自らの地所に教会を建て、貧しい人々のための保養所と病院の設立を進めているところだった。

シドニーは伯爵家の生まれのエリートで、後に初代男爵の爵位を授かる。若い頃から政治家として経歴を重ねていた。クリミア戦争時には戦時大臣として、フローをリーダーとする女性看護師団の派遣を主導し、軍の苦境を救うと同時に、フローが叶えたい「看護師の職業地位向上・確立」という夢を理解し、応援していた。

大臣としての責任は、兵員の衣食住や医療体制にもあり、その支持を出してもいたが、補給物資の確保は大蔵省の管轄にあり、予算を出し渋るために動きが悪かった。

シドニーは、クリミア戦争中の政治変動(ローバック委員会)で戦時大臣を辞した後も内閣に影響力を行使し、フローの相談相手として支援を続けた。

フローがクリミアにいる間に、英国でフローが戦後に看護学校を開けるようにする基金を立ち上げる委員会を発足させ、その名誉書記となった。創立集会でシドニーはブレースブリッジ夫妻の貢献を伝えると共に、フローの献身を語る兵士の手紙を読み上げ、多くの人々に強い印象を与えた。その基金創立の知らせは前線に伝わり、兵士から軍医たちからも多くの募金が集まった。

二人の協力関係はクリミア戦争後が本番となり、戦争で問題になった軍の兵士たちが衛生・医療環境を改善するため、シドニーは前方を、フローは後方を担当し、多くの障害を取り除いて改善に向かって動き続けた。

やがてシドニーは陸軍大臣となり、これからというところで早逝する。彼の死をナイチンゲールは嘆き、作中にあるように少なからず自責の念を持っていたとされるが、煮え切らないシドニーの態度を巡ってフローが彼を評価していなかったとの話もある。

■エリザベス・ハーバート(1822-1911) 上巻p.117などで言及

フローの友人となった女性。幼い頃からシドニー・ハーバートと知り合いで、24歳で彼と結婚する。政治に関心があり、夫の秘書を務めてもいた。

信仰心にも篤く、貧しい環境で道徳的に危険な状態になり得る人々への支援にも関心が強かった。そうした背景から、同じように活動する友人フローを積極的に応援した。友人が理事長を務める病院経営のポストを推薦したり、戦争時も文通相手として物的・精神的支援を行ったりした。

フローと働くシドニーを、時にはフロー以上に励ましていた。

若い頃は英国国教会のマニング大司教の影響を受けていたが(フローもエリザベスを介してマニングの知人となる)、マニングがローマ・カトリックに改宗すると動揺した。夫の死から数年後、エリザベスはローマ・カトリックに改宗して、周囲との関係を断つことになった(マニングの改宗を含めた当時の宗教事情はこちらの解説を)。

■チャールズ・ホルテ・ブレースブリッジ(1799-1872)

ブレースブリッジ夫妻は作中未登場ながらも、若きフローの人生を守った庇護者といえる重要人物。

チャールズは名家の生まれで準男爵の一族となる旅行家のジェントルマンだった。自由主義運動を推奨し、文学的関心も高かった。ギリシアでは独立解放運動に関わり、アテネにも屋敷を構えた。

若き日のフローの保護者となり、海外旅行へ行くフローを連れ出した。オリエント事情に通じ、フローのローマやエジプト観光にも尽力した。

クリミア戦争には夫妻でフローに同行し、これまでの旅先同様、フローをサポートする役目を果たし、手紙や注文書を書く仕事から面会記録や、訪問客の観光アテンドまで行った。負傷兵ロバート・ロビンソンをメッセンジャーにしたのも彼である。前線クリミアにフローが赴いた際も同行し、親身に世話をした。

ただ、フローが病から回復した後、夫妻は帰国した。軍人との間で現地での忍耐力を使い果たしたことや、高齢で健康状態の懸念もあった。

ところが、帰国後のチャールズはフローの活躍を大袈裟に伝えた上で軍医たちを貶す講演を行い、それが新聞記事になり、現地の軍医たちの強い反発を呼び、フローを苦境に追いやる結果を招いた。この時はフローも怒り、手紙を送り、さらに健康も損ねた。

とはいえ、戦後も関係は続いた。1856年8月に帰国したフローは、その月にブレースブリッジ家を訪問している。後にチャールズが亡くなったときにも「クリミア戦争に一緒に来てくれた唯一の男性」で、「友人の中で最も思いやり深く、最も善良で高潔な人物」と哀しんだ。

■セリナ・ブレースブリッジ(1800 – 1874)

アマチュアの芸術家。チャールズの妻。

温厚で誠実な人柄で、看護を巡って家族から強い抑圧を受けていたフローの心を救った人物で、自分の人生を変えたとまで書き残している。家族問題で苦しむフローを海外旅行へ連れ出したり、カイザースヴェルトへ連れて行ったり、母に対してもフローの自立を承認させるなど、フローが巣立っていくための保護者の役割を果たした。

クリミア戦争の時も、夫チャールズとともにフローの看護団に同行し、病院運営をサポートした。セリナは、兵士たちに同行したものの誰も面倒を見ないまま苦境にある兵士の家族(妻や子供たち)の世話を行い、そのための基金も設けた。

フローがクリミアで病に倒れた時はスクタリから迎えに行き、看病に努めた。

夫と共に帰国したが、戦後もフローとの交流は続き、フローは死の直前のセリナを見舞って時を過ごしている。

■リチャード・モンクトン・ミルンズ(1809-1885)

政治家・作家。後に男爵となる。若き日からナイチンゲール一家と交流があり、フローにプロポーズした。断られた後も、友人であり続ける。

フローが宗教的思索を書いた原稿を彼に預け、感想を求めるといった交流もあった。彼も慈善活動や社会改善に関わり、若年犯罪者を成人と別の鑑別所に送るようにするなど、その更生を支援した。ナイチンゲール基金の設立会合では、フローを讃える演説を行った。

■シャフツベリー伯爵アントニー・アシュレイ・クーパー(1801-1885)

フローの若い頃からの知人で、看護に関心を持つフローのために、衛生改革や病院経営に関する報告書を読むことを薦めた。

上流階級の生まれだが、下院議員としての活動は社会福祉へ向かい、精神障害者を保護する法律や、工場の労働条件を改善する工場法改正、児童の雇用規制、労働者のためのモデル住宅事業などにも寄与した。

1848年公衆衛生法の制定で設置された衛生委員会にも属し、翌年にコレラが流行した際にはその終息に向けて活動した。過密状態の埋葬地の閉鎖や首都への給水状況の改善などにも関わった。なお、クリミアに派遣された衛生委員でフローの同志となるサザーランド医師は、過密状態の埋葬地をめぐる法案に関わっていた。

後の首相パーマストンは一連の公衆衛生法を強力に推進したエドウィン・チャドウィックを支持をしており、こうした公衆衛生の活動が、クリミア戦争の際、病院改善のための衛生委員派遣に繋がることになる。

■パンミュア男爵フォックス・モール(1801-1874)

クリミア戦争開戦時の陸軍大臣ニューカッスル公爵の後を継ぎ、クリミア戦争の行政を変えた。父との確執から陸軍将校となり、政治家になってからも1846-1852年まで戦時大臣をしていた。

陸軍では兵士の徴用制度を改革に携わり、金目当てで質が低い兵士の質を高め、新しく入隊した兵士に短期訓練を行う仕組みが整えるなどの活動もしていた。

衛生委員会の派遣と同時期、補給問題の調査委員としてマクニールとタロックを派遣したパンミュア卿は、クリミア戦争の初期、従軍した弟がヴァルナの地でコレラに感染して亡くなっている。軍の後方支援の惨状は弟から聞き及んでおり、着任早々、ラグランを詰問するなど軍の責任を追及するさまざまな手を打った。

パンミュア卿が陸軍大臣として行った最も大きな改革は陸軍組織再編だった。軍需監督庁が「砲兵と工兵を独立した軍として指揮する」「軍需物資と海外派遣軍への物資供給を行う民間の兵器委員会を管理する」二点を廃止し、軍事部門を総司令官へ、文民部門を陸軍大臣直下に再配置した。

パンミュア卿自身は直下のジョン・ヘンリー・レフロイを派遣して医療状況の調査をさせるなど、クリミア戦争の遂行に当たって陸軍将校に対して厳しいスタンスを示した。また、クリミア戦争におけるフローの病院看護師統率権について、全面的に認めた布告も出している。

戦後、軍制度改革をヴィクトリア女王に申し出て承諾を得たフローにとって、パンミュア卿は実施に向けて協働するパートナーとなり、こっそり「パン様」とフローは呼んだ。

しかし、その動きが非常に遅く、フローを苛立たせることとなった。


主要参考文献

Oxford Dictionary of National Biography 
https://www.oxforddnb.com/



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