見出し画像

【調査2/3】ナイチンゲール倉庫襲撃に関するマルクス記事のネタ元と委員会証言での襲撃否定

この記事の見出し画像はナイチンゲール博物館に展示されていた、ナイチンゲールがクリミア戦争で持参していたという薬箱です。



ネットでは、伝記を元に「ナイチンゲールは斧を持って、患者のために軍の倉庫を襲撃し、薬箱を破壊して奪取した」という逸話が広まっています。

その襲撃のエピソードの広まりについて、カール・マルクスがアメリカの新聞社への寄稿で記事にしていたことが判明しています。これはナイチンゲールが従軍していた1855年3月27日のことでした。

ただ、その時の記事の中身は「襲撃」であっても、「斧」も「薬箱」も出てきません。「マルクスが記事にした」ところまでは以下にまとめましたので、今回はその続きです。

上記のテキストに書きましたが、マルクスによるこの記事が「彼のオリジナルではない」と考えました。そこで、彼が記事を書いた1855年3月末より前の英国新聞記事を読み漁っていたところ、マルクスの記事に含まれていた「routine」(ここでは官僚主義的な融通の効かない仕事)の文字を含む新聞記事を見つけました。

その記事は3月17日のもので、マルクスが記事を書いた10日前のものです。

1855/3/17記事「ミス・ナイチンゲールと "ルーチン"」

Source: Wrexham Advertiser - Saturday 17 March 1855

ミス・ナイチンゲールと "ルーチン"(Miss Nightingale and “Routine.” )

ある日刊紙が次のテキストの正確性を保証するが、この出来事が真実であれば、すでに国の中心にその名が刻まれている、このひたむきで真に高貴な女性の名誉を倍増させることになる。

多数の傷病兵を乗せた船がスクタリに到着し、下船後、病院に運ばれた。病院のベッドは埋まっていたので、病人たちは床の空いているところに寝かされた。ミス・ナイチンゲールは、病院が使用するベッドが隣接する政府の倉庫に大量にあることを知っていたため、担当官に連絡を取り、緊急にベッドが必要であることを伝え、すぐに病院に送ってくれるよう懇願した。

しかし、彼女は担当官から、正式に権限を与えられた役人が正規の書式で署名した注文書がなければ、寝具を倉庫から持ち出すことはできないという返事を受け取った。

ミス・ナイチンゲールは担当官に、これは普通のケースではないこと、ベッドが供給されなければ多くの兵士の命が失われること、正式な命令が出るまで待つことはできないので、すぐにベッドを用意するよう主張しなければならないことを伝えた。

この要求に対してミス・ナイチンゲールは、以前のような反論と拒否の繰り返しを受け取っただけだった。この痛ましい局面で、この立派な女性はどうしたか? 彼女特有の素直な性格で、すぐに行動を決めた。

たまたま近くにいた数人の兵士と回復者を呼び集めた。彼女は彼らとともに倉庫に向かった。彼女は彼らに、扉を壊して必要な数のベッドを取り出し、病院に運ぶように命じた。

担当官はこの反抗的な行為に愕然としたが、それを止めることはできなかった。この出来事を本部へ報告するときは、「私が自身の責任でやった」と伝えなさいと言った。

ここで重要なのは、2点です。

  • 「ある日刊紙が、次のテキストの正確性を保証するが、この出来事が真実であれば」と、「真実であれば」と伝えていること。つまり、真実だと自らは保証しておらず、別の記事に頼っている。

  • 襲撃で「奪ったもの」はマルクスの記事では不明だったが、ここでは「ベッド」と書いてある。

    というところで、ここでいう「ある日刊紙」が載せた記事を探したところ、3/2の記事を見つけました。こちらの記事の方がタイトルの表現がわかりやすく、また他の記事への参照はなく、自らが正確性を担保するとしていますので、現時点ではオリジナルと見做せるかもしれません。

1855/3/2記事タイトル「ミス・ナイチンゲールと、スクタリの官僚主義的手続きシステム」

TITLE:MISS NIGHTINGALE AND THE RED TAPIST SYSTEM AT SCUTARI.
Morning Advertiser - Friday 02 March 1855

以下の状況について、私たちはその正確性を誓うものですが、レッド・タピスト・システム(官僚主義的手続き)の優位性から生じる悲惨な結果について、想像を絶するほどの印象的な例を示している。

多数の傷病兵を乗せた船がスクタリに到着し、下船後、病院に運ばれた。病院のベッドはすべて埋まっていたため、病人は床の空いているところに寝かされた。ミス・ナイチンゲールは、隣接する政府倉庫に病院用のベッドが大量にあることを知っていたため、担当官に手紙を送り、ベッドの数が切迫していることを伝え、すぐに病院に送ってくれるよう頼んだ。彼女は担当官から、正式に権限を与えられた役人が正規の書式で署名した命令書がなければ、ベッドを倉庫から持ち出すことはできないとの返事を受け取った。

ミス・ナイチンゲールは担当官に、これは通常のケースではないこと、ベッドが供給されなければ多くの兵士の命が失われること、すぐにでもベッドが欲しいと主張しなければならないこと、正式な命令が出るまで待つことはできないことを伝えた。この申請に対してミス・ナイチンゲールは、以前と同じ反対と拒否を受け取るばかりだった。

この痛ましい局面で、この立派な女性はどうしたか。女性特有の素直な性格で、すぐに行動を決めた。たまたま近くにいた兵士や療養者を数人呼び集めた。彼女たちは倉庫に向かった。ミス・ナイチンゲールは彼らに扉を壊して必要な数のベッドを取り出し、病院に運ぶよう命じた。担当官はこの恐ろしい反抗的行為に立ち向かったが、それを防ぐことはできなかった。

「この事態を本部に報告するときは、私の責任でやったと言いなさい」とミス・ナイチンゲールは言った。

この高貴な婦人は、全軍になんという模範を示したことだろう!このか弱い女性がしたようなことを、自分の配下にある兵士の命を救うために敢行した将校がどこにいるだろうか?

そうすることで貴重な命を救うことができ、同胞から無害とされることがわかっていたにもかかわらず、官僚主義の定型的で飽き飽きする道からあえて一歩踏み出そうとした一人の人物を、指弾することができるだろうか? これは本当に情けない出来事です。

この3/2と同様の記事が、各紙に配信されています(地方紙での掲載)。

  • 3/3 Southern Times and Dorset County Herald , Hull Daily News

  • 3/4 Lloyd's Weekly Newspaper

  • 3/5 Bell's Weekly Messenger

  • 3/7  Essex Standard, Norwich Mercury

  • 3/8  Devizes and Wiltshire Gazette, Dorset County Chronicle, Nottinghamshire Guardian

  • 3/9  Lincolnshire Chronicle, Derbyshire Advertiser and Journal, Chelmsford Chronicle, Shrewsbury Chronicle, Essex Standard, Daily News (London), Hull Packet

  • 3/10 Berkshire Chronicle,  Silurian, Ulster Gazette, Salisbury and Winchester Journal, Preston Chronicle ,Cardiff and Merthyr Guardian, Glamorgan, Monmouth, and Brecon Gazette, Cambridge Independent Press Monmouthshire Beacon

  • 3/15 Saint James's Chronicle, Saint James's Chronicle

  • 3/16 Essex Standard, Greenock Advertiser

1855/3/13の記事の変質

ここで変質した内容の記事も出てきます。

3/13 Morning Chronicle/Morning Postの記事です。同一の内容ですが、ここでは「英国へ帰還した軍人たちの証言」として、ナイチンゲールの逸話が語られるようになっています。

海軍と陸軍の情報機関 特派員より 3月12日、ポーツマス。

土曜日、152名の病人がクリミアからチャタム港に到着した。騎兵隊の兵士の多くは、バラクラヴァの大突撃で受けたサーベルによる重傷を負っている。彼らは皆、ミス・ナイチンゲールを非常に高く評価し、感謝しており、多くの兵士の命を救ったミス・ナイチンゲールの逸話を語っている。

クリミアからかなりの数の病人がひどい状態でスクタリに到着し、倉庫管理者と呼ばれる人物は寝具やその他の品物を要求された。しかしその人物は、彼の部署の責任者からの文書による命令がない限り、品物を渡すことを拒否した。

ミス・ナイチンゲールはこの事件の緊急性と、病人に早急に手を差し伸べる必要性を察知し、必要な物品が許可されないのであれば、必要なものを提供すると申し出た。もし倉庫管理者が正確な手続きに従うと言うならば、上官からの命令が届く前に多くの男たちが死んでしまうだろうとミス・ナイチンゲールは言ったが、管理者は譲らなかった。

そこでミス・ナイチンゲールは、管理者に何を言っても無駄だと思って彼のもとを去り、数人の屈強な男たちに頼み、倉庫の扉を開けるよう命じた。彼女は、鍵を手に倉庫を見守っていた管理者へ、自分一人に責任があることを告げた。

Morning Post - Tuesday 13 March 1855

ここである種、既成事実化しているのです。

すべての記事を把握できていませんが、3/2の記事がそのまま広がったものと、その記事をベースに記事化したもの(3/17にあるような)、そして海軍の通信員から「帰還兵が語ったものとして」(3/13)の3種類の派生が見られています。

1855/3/17のローバック委員会証言での倉庫襲撃の否定記事

1855年のこの記事が英国で書かれている時期には、クリミア戦争に派遣された調査委員会が帰国して報告書をまとめており、それらに基づいて関係者が壊滅的な状況を招いた英国陸軍の状況(後方支援:補給・医療など)を調査する議会主導の委員会「ローバック委員会」が開催されています。

何回も開かれているその委員会証言のなかに、この新聞報道で広まった「ナイチンゲールが倉庫を襲撃した」記事を否定する証言が出ています。

委員会証言全文を読めていないのですが、証言者は「タイムズ基金」のマクドナルドで、委員会で質問をする側の政治家ミスター・レイヤードが質問者となっているようです。

ミスター・レイヤードによる質問への回答: ミス・ナイチンゲールは、物資をすべて彼に頼っていたわけではない。彼女は自分の物資を持っていた。
(中略)
ミスター・レイヤードによる質問への回答: ミス・ナイチンゲールによって倉庫が壊されたという話を聞いたことはない。

London Evening Standard - Saturday 17 March 1855MR. ROEBUCK'S COMMITTEE—THE ARMY BEFORE SEBASTOPOL. TENTH DAY. 

これらの点から、「ナイチンゲールが倉庫を襲撃した」という噂は委員会で聞かれたものでした。

この「ナイチンゲールと倉庫からの物資供出をめぐる話」を、クックによる公式伝記では、このように触れています。少し長いですが、前段も重要なので、触れておきます。

「ハーバート戦時相宛てのフローレンスの手紙は、このような実例がしばしばあったことを明らかにしている。たとえば1855年2月、フローレンスはバラクラーヴァの病院の軍医たちからシャツの支給を求められた。彼女は2万7千着のシャツが彼女の要請で政府によって本国から送られ、すでに陸揚げされていることを知っていた。しかし調達官は使用を許してくれなかった。「係官の許可なくしては包装を解くわけにはいかない」というのであった。監察局が許可を与えるまでに3週間が経ってしまった。膝掛けやシャツがないので、寒さに震えていた傷病兵は、監察局が妥当と見るまではは我慢するほかないという説明を聞いたらさぞかし憤慨しただろう。

次の挿話はフローレンスがそうした遅延に苛立っていたことから生まれたに違いない。あるとき、フローレンスは政府から送られた貨物の荷解きを厳命した。役人たちは監察局から文句を言われないかと気を揉んであたふたしていたが、彼女は歯牙にもかけなかった。この話はローバック委員会でも取り上げられていた。確認されてはいないが、フローレンスならばそのくらいのことは平気でやったろう。

『ナイチンゲール その生涯と思想 I』p.275

ここでは、事実として手紙の記録をあげ、「ナイチンゲールが荷解きを待って強引な開梱・倉庫襲撃をしていないこと」を踏まえつつ、それでも「確認されていない挿話」として「荷解きを平気でやったろう」としています。重要なことは、この時点では「確認されていない」ことです。

私が上記で取り上げたローバック委員会(10日目)ではナイチンゲールへの言及は「倉庫襲撃」であって「荷解きの厳命」ではありません。また、そもそもクックは「倉庫襲撃」の新聞記事を確認できていなかったようで、そのことにも触れていません(公式伝記ゆえにイメージを崩すことは編集される傾向も見えつつ、もしも襲撃の話が流布しているならば、否定したはず)。

また、このクックの伝記では上の記述の後に、1855年3月のローバック委員会で取り上げられた「倉庫襲撃」でナイチンゲールが奪ったとされる「ベッド」についても、彼女が自前で用意していたとの記述しています。

物資物品は軍医の要請に基づいて調達官によって病院に支給されることになっていたが、軍医はただでさえ仕事に忙殺されており、忙しさにとりまぎれて公式に要請することをしない場合もあったらしい。それとも要請書が、ろくに調査されずに「ストックなし」と書いて突っ返されていたのか。そんな次第で物資物品は、はるばるイギリスから取り寄せられるか、他の何らかの方法で入手されるかするわけだが、その場合にも以前の要請書が保存されていないので、手持ちの物品があっても改めて要請しないと、いたずらに倉庫内に眠り続けることになった。

委員たちはこうしたことが原因で調達官の倉庫内にベッドが山と積まれているにもかかわらず、患者はベッドなしで床に寝かされることがあるということを知った。幸いフローレンスはマルセイユでたくさんのベッドを買い込んで、個人的にストックしていた。

『ナイチンゲール その生涯と思想 I』pp.275-276

これらを鑑みると、ナイチンゲールは自前でベッドを調達できていたので、襲撃する理由もありません(個人的にストックしていた数で間に合わないことも当然ありますが)。

整合性を考えていくと、「委員たちはこうしたことが原因で調達官の倉庫内にベッドが山と積まれているにもかかわらず、患者はベッドなしで床に寝かされることがあるということを知った」という委員会証言の報道から、「ナイチンゲールならば患者のために略奪したかもしれない」という「神話」を新聞が創出した可能性も推測されます。

もう少しローバック委員会報道と当時の新聞を読まなければなりませんが、一旦、今時点でわかっていることをまとめました。

2024/1/6追記 1854年12月に英軍倉庫を無許可捜索しているとの手紙

別の資料を読んでいたところ、(許可なく)英軍倉庫で毎日、物資を探していることが手紙に記されています。

この惨状に焦った彼女は、無許可の手段に出た。
「今朝、調達官の倉庫の中で探し回りました」と彼女は12月にシドニー・ハーバートに報告した。
「ほぼ毎日、(英軍の調達官から)物を手に入れる唯一の方法として行っている巡回なのです。モップもない、皿もない、木製のトレイもない......スリッパもない、靴ブラシもない、靴墨もない、ナイフとフォークもない、スプーンもない、ハサミもない(文字通り生きている男たちの髪を切るために......)......洗面器もない、タオルケットもない、消毒用の塩化石灰もないのです」

『Florence Nightingale: The Woman and Her Legend』から翻訳・引用

この12月(手紙を書いたのは12/21)の時期はナイチンゲールが着任して1ヶ月程度が過ぎた時期でありつつ、「11月のクリミアでの嵐での物資喪失」直後で、かつ「12月に大勢の兵士を受け入れるために、兵舎病院の拡張工事をした」時期でもあり、英軍全体で最も補給が困難だった時期に該当します。

襲撃こそしていないものの、権限を持たないまま立ち入っているところは、人によっては強い反発を招くものでしょうし、この辺りの話が噂となって広がった可能性もあります。

そして、参考にした資料では、上記の一文の直後に、彼女が自力調達を進めていく説明がなされています。

自暴自棄になったナイチンゲールは、シドニー・ハーバートに公式手続きを回避してロンドンから直接物資を送るよう要請した。

彼女はまた、オズボーン、タイムズ紙の資金管理者ベンス・マクドナルド、陸軍改革の熱心な提唱者としてスクタリに来ていたノーサンプトンシャー州選出の国会議員オーガスタス・スタッフォードの支援を得て、自らコンスタンチノープルのグランドバザールから物資を購入し、宿舎の倉庫に保管した。さらに、自発的な寄付があり、7,000ポンド近い金銭と、英国に戻った篤志家からの大小さまざまな贈り物があった。

『Florence Nightingale: The Woman and Her Legend』から翻訳・引用

どうして斧を持って薬箱の破壊へ変わったのか?

1887年のアメリカの女性参政権運動の記事に「斧で包帯を奪わせたナイチンゲール」記載あり

たまたま調べ物をしていたら、先ほどのnoteで言及された記事よりも古い1887年のアメリカの地方紙で、ナイチンゲールが斧を持って「包帯」を奪わせた記事を見つけました。

  • 1855年3月2日:初期の襲撃報道記事:ベッドを奪う

  • 1855年3月17日:マルクスが参考にした記事と、議会証言で襲撃の否定記事:ベッドを奪う

  • 1855年3月28日:マルクスが書いた記事:何を奪ったか書いていない

この後はまだちゃんと調べていないのですが、この1855年から32年後には「ただの襲撃」が「斧を持って、包帯を奪う」になっています。

記事全体は女性の参政権運動に反対しており、その理由として女性が兵士になれないとの説明をしており、その中の例外的事例としてナイチンゲールを取り上げる中で言及しています。

Of course the world admires the pluck of a Florence Nightingale who when failing to secure bandages for the wounded soldiers at the Crimea sent for an ax and commanded the storehouse doors to be broken open and took the bandages and other necessary supplies.
もちろん、フローレンス・ナイチンゲールがクリミアで負傷兵のための包帯を確保できなかったとき、斧を差し出し、倉庫の扉を壊して包帯や必要な物資を持ち帰るよう命じたような気概は、世界中から賞賛されている。

The Pacific Rural Press and California Farmer第 34 巻@.384 1887/11/12記事
上記の新聞記事のキャプチャ画像


というところで、ここで「斧+包帯」へ進化したのち、「斧+薬箱」へどのように変わっていくのか、あるいは「斧+薬箱」ももっと前にあるのか、というのが気になるところです。

ただ、その斧についてはこちらの「ナイチンゲール・斧」の考察をされている方のテキストを見ると、アメリカの禁酒運動活動家のキャリー・ネーションを指摘されており、「マルクスの記事がアメリカの新聞に向けて書かれたこと」と、上記の「1887年の新聞記事」が「アメリカ」であることから、アメリカでの進化を経て、逆輸入(英国へ)という気がしております。

直感です。

この点では、上記ブログで触れられていた『19 世紀の日本におけるナイチンゲール伝』の研究テキスト内の、『New York (evening) post』も見てみようかと思う次第です。

この辺は年明けにでも。

絶対に英語圏や英国本国でのナイチンゲール研究の中で、このイメージ拡散についての論文がありそうなのですが、残念なことに見つけられていません。上述の『19 世紀の日本におけるナイチンゲール伝』の研究テキストの英語圏版で良いのですが。

2024/03/17追記 アメリカの新聞報道での派生・日本に伝わった伝記の源流などの追跡調査を終えているので、こちらから是非。


いただいたサポートは、英国メイド研究や、そのイメージを広げる創作の支援情報の発信、同一領域の方への依頼などに使っていきます。