『はいからさんが通る』伊集院忍の実家・伯爵家に家令・執事がいない理由の考察

メイドや執事を研究する私が、初めて買った少女漫画、そして好きになった少女漫画が、『はいからさんが通る』でした(以下、ネタバレあり)。

当時は気づかなかったのですが、後に日本のメイドブームを研究した際に、この作品には「脇役としてのメイド(伊集院伯爵家)」や、「ハウスキーパー的なメイド統括の如月」、そして「屋敷に潜入するために、女装してメイドとなった蘭丸」など、「メイド」にまつわるネタが、数多く盛り込まれていました(『日本のメイドカルチャー史』上巻参照)。

そのように「メイド」観点で作品を見た後、「華族なのに、どうして女性使用人しかいないの? 家令(または執事)はどうしていないんだっけ?」と、「執事ブーム」を研究した時に、ふと思いました。大きなお屋敷に住んでいるのに、と。

花村家の家事使用人描写(1名)

先に、主人公たる花村紅緒の家について。彼女の家には、面倒を見てくれるばあやがいます。陸軍少佐で、その祖父は幕臣・旗本という士族であり、賊軍となったため、公家の生まれだった伊集院伯爵夫人と結ばれず、孫となる紅緒と伊集院忍の代になって、結婚を果たす誓いが果たされました。

士族出身の軍人家である花村家には、「ばあや」がいます。生活を見る限るは花村家は旧士族・軍人の家として質実剛健な生活をしており、洋館でもなく、洋風の暮らしでもなく、贅沢な生活と無縁に見えます。「ばあや」が一人いれば、間に合うのでしょう。

伊集院家の家事使用人描写(奥女中1名+メイド数名+女装メイド1名+コック)

対して、伊集院家は明治以降に生まれた日本の上流階級「華族」の伯爵家です。ただ、伊集院家自体は公家で、伯爵夫人が「薩摩侍」の現伯爵を婿に迎えた形で存続しました。この伯爵は、「朝敵」として敵対した幕府側士族家の紅緒に好感を持っていないという設定で、初日から鎧を着込んで、槍を構えて紅緒を襲います。

ここで重要なのは2点あります。まず、伊集院家は幕末に「公家」だったということから、明治になって旧公家、旧大名家などの華族「旧華族」になったと考えられます(「新華族」は、その後の華族令発布時に、勲功があった人々が任じられた人々)。

この「旧華族」に対して、政府の1870年太政官布告第581号「宮並ニ華族家人ノ職員ヲ定ム」で、宮家・華族家を運営する「家令」「家扶」「家従」「家丁」の4つの家職(運営する職員)が定められました。

これらの職種はこの時点で宮家・華族家だった人々だけが雇用し得るもので、その後の「新華族」の家には適用されていないと、尾張・徳川家を相続した徳川義親氏は述べています。また、氏は「執事」とは「家令」を雇えない家で使われ、また小大名、男爵、子爵では大勢を雇えないとも記しました。

旧大名家ではない華族にはあまり財産がない

こうした「家職」が必要で雇用できたのは、主に「旧大名家」です。明治政府の下で、かつての大名たちは「私人」となり、「藩という領地」の運営から切り離されました。旧領地には「私人となった旧大名家の人々の私有財産」(農地・鉱山・森林など)も一部で残りましたし、

かつては大名とその家臣団が統治した行政区域は、公務員が代替していくことになります。しかし、同じく「旧大名家に残った私有財産」を運営するのにも、人が必要でした。それを担うのが「家職」でした。この人々は、多くの場合、旧家臣団でした。

一方で、華族は原則として東京に住まなければならなかったため、東京と旧領地に機構を必要としました。この旧領地出身者は、人材を必要とした華族にとって貴重な人材でした。県人会が機能し、人・金・物のやりとりに旧藩がどのように機能したのかを、深く研究・解説しているのが『明治期の旧藩主家と社会: 華士族と地方の近代化』です。

そこでいくと、伊集院家は「旧大名家」ではないので、「領地」がありません。薩摩藩士で士族出身の現伯爵も、旧大名家ほど裕福ではないのでしょう。「領地がない」ことは、財産がないだけではなく、人材供給源もない、もっと言えば「主人に忠実な旧家臣団がいない」ことも意味しています(ただ、この「家職」も曲者で、家が食い物にされる場合もあります)。

この点で、伊集院家は作中の描写で、1) 家職がいない=不要な規模で屋敷しかなかった、2) 伊集院忍の死が報じられた後で遺産相続を話す親族に祖父たる伯爵が「財産はない」と言い放つなど、「お金がない」ことが補強されています。

ただ、作中には、伊集院忍が記憶を取り戻して伊集院家に戻ってきた際に、「土地も森林も(権利証が)抜き取られている」と、親戚が財産をかすめ取って行ったことを確認しています。「家令」不在で「旧領地」こそないものの、「土地や森林といった財産は、ある程度あった」と言えます。

これまで「土地」に紐付く財産の話をしてきましたが、秩禄公債・金禄公債などで華族・士族は禄高を手放す際に、禄高を基準に計算された一定額の公債を支給されており、その運用・投資次第では財を増やすことができました。この管理も「家職」の仕事に含まれました。

「家令」がいるかは財力を知る基準

「旧華族でかつ、旧大名家で財産がある」家以外は、基本的に「家令」を雇用できず、また旧華族であっても財産がなければ、大勢の家職を雇用する余裕も必要性もない物でした。

もちろん、明治以降には商工業で経済的成功を収めた、新興富裕層もいました。彼らは人を雇うだけの財力があります。しかし、あくまでも「家令」などの名前は「旧華族」で用いられる物であり、それらの家で「家令」のような役割を果たした人々が「執事」と呼ばれたと、先の徳川義親氏や同時代の記録に残っています。

というところで、『はいからさんが通る』をきっかけとして、『日本の執事イメージ史』執筆時に接した華族の家の「家令」「執事」の解説をしました。あくまでも大筋のところであり、家によって異なるのは常であり、具体的・包括的な情報は華族に関する書籍や専門書をご覧ください。


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