知ることについて
私は知りたい。自分の知りたいことを知りたい。自分の活動能力を増大させることを知りたい。それは健康に関する知識のみではない。健康の知識しか得ようとしないならば、私はストレスが溜まって不健康になるだろう。活動能力は減少する。つまり、健康の知識が活動能力を高めるかどうかはわからず、また健康以外の知識は活動能力を高める可能性があるものである。
もちろん活動能力は身体の活動の力である。生き生きとする、とは精神的であるとともに身体的である。まあ、なにが言いたいかと言うと、自分について知ることが、自分の身体活動を高めるということである。それは医学の知識や性格類型のようなもの以外がむしろ重要である。自分の医学的な側面や性格タイプのような情報は、自分の極めて限られた領域でしかない。自分について知ると生き生きとするのだから、自分が生き生きとするようなことを知りたいのである。トートロジーかもしれないが、現状これはしっくりくる。
今は哲学をドゥルーズを中心に知ると楽しい。そして、能や武術、テニスやランニングを通して身体について知ると楽しい。絵も楽しいし、音楽も楽しい。それらの活動は自分について新しい一面を、健康や性格類型以上に教えてくれるのである。健康情報や性格類型より、それらの活動から得られる情報の方が、自分について深く知れるのである。ゆえに、身体を痛める武術は医学的知識より自分の活動能力を増大させてくれると言えよう。それらは自分について多く知れるのか、深く知れるのか、細かく知れるのか。
おそらく細かく知れる、がしっくりくる。知らない、というのはエントロピーが大きい状態であり、知っているというのはエントロピーが小さい状態である。生命は自分であろうとする力(コナトゥス)をエントロピーの縮減によってなそうとする。よって、生きようとする限り自分についてのエントロピーを縮減させる方向に、つまりより細かく知ろうとする。いや、細かく知ろうとすることがエントロピーの縮減を意味する。つまり、武術によって得られる知識は、自身の医学的情報よりも自身のエントロピーをより大きく縮減させるのである。
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