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〈遊びのエチカ〉テキトーのすすめ

テキトーはサイコーだ。完璧を求めなくて済む。ほどほどで良い、という安心感。もちろんテキトーは永遠にテキトーにはならない。テキトーは進化もすれば退化もするし、進退の次元を問わず変化していく。

同じテキトーは二度と作れない。どうせなら<良いテキトー>を作れないものか。それはどういったものか。

テキトーというのは、何か目標があって、そこから外れてはならない、の否定である。枠から外れてもいいし、そもそも枠がなくていいこともある。何せテキトーなのだから、テキトー具合に関してもテキトーだ。

枠から外れてもいい、というのは楽である。しんどくない。それが1つの大きな利点だ。人生テキトーに生きれば、真面目に生きるより自由で楽そうだ。

でも、真面目にも良いところはある。それは枠に乗れることである。枠を設定したということは、そっちの方が良いと感じた何かがある場合も多く、その枠に入るから楽しく、むしろ楽だ。

例えばテニスは、来た球にラケット面を合わせ、相手のコート内で弾ませる、という枠、すなわちルールがあり、それに従うからこそ楽しい。ここをテキトーにしてしまうと変なことになって楽しくない。精神的にも楽ではない(アイツやばいな、お前とテニスしたくない、etc.)。

だから、真面目もある程度はあると良い。だが必要とは言わない。あると良い場合もある、と言うにとどめる。

なぜなら、先程のテニスのルールも常に従うべきとは限らないからだ。例えば、試合中、相手の体にボールが当たればこちらのポイントになる。相手がネットに詰めてきているときに、ボディーを狙う際、「コートに弾ませる」という枠に真面目にならず、テキトーに「アウトしてもいいや、相手が反応できないくら速い方が重要でしょ」と思い切った方が、ポイントになる確率が上がるかもしれない。

あるいは練習中(球出しなど)、あえてラケットを握らず、ボールに対して手のひらで打てば、体の使い方に意識を集中させ、いざラケットを持った時、力強いショットを打てるようになるかもしれない。

また、サーブを打つときに、「相手のサービスエリアに入れなきゃ」と考え窮屈になっている場合、むしろ「このポイントではサーブは入らなくてもいいから気持ちよく打とう」とテキトーにやってみる方が体の動きが良くなり、むしろボールに回転がかかって、それ以降のサーブが入りやすくなる、ということもリアルにあり得る。

自分や他人、一般的に設定された枠を絶対のものじゃないよな、とテキトーに考えている方が、ずっと真面目、真面目しかない、よりも自由でいられる。

枠を守る必要は必ずしもない以上、物事はテキトーベースで始めて、その上に真面目に守る枠をいくつか、場合に応じて持っている方が理にかなってるように私には思える。

ゆえに、こと真面目しか選択肢がなく窮屈な思いをしている人には、テキトーから始めてみる、という
順番の変更をおすすめしたい。

時に怒られることもあるだろうが、テキトー慣れしておけば、そこのバランスも慣れてくる(と思いたい)。

人の命を預かる、などという場面においてのテキトーはまずいかもしれないが、それでも救急医療の現場において、トリアージにより治療の優先順位がつけられる。これは「苦しんでいる人は今すぐ治してあげるべきだ」という枠に対してはテキトーを採用した結果であるとも言えよう。

また、命のやりとりをする武術においても、ガチガチに固まるより、うまく脱力した方が体が素早くしなやかに反応し、生存確率は上がる。むしろ、どこかテキトーを持っている意識でないと死んでしまう、ということになるかもしれない。

ここでは「真面目にテキトー」という両義的な状態が現れている。こうなると言葉で表現するのは困難なので、私も含めみんなで、テキトーと真面目を何度も行き来して、その按配を探るのが良いかと思われる。

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