レヴィ=ストロース方式の書き方、世界を止める、縮地法、生成子の表現場(10/26)

朝起きるまでの数時間脳が活性化して色々な夢を見たので、しばらく呼吸に集中して瞑想し、意識を整えてから起床。

今はデバイスで執筆することがイヤだったので、原稿用紙に考えたことを書く。4枚も書いた。すごいスッキリした(この一部をnoteに音声入力などで移そうとも考えたが、一度書いたものをデバイスに写す作業は作品化するもの以外面倒が勝るのでやめる。日記はテキトーでいいのだ、テキトーで)。

起きてからしばらくして頭の回転が速いモードになってくると、手書きだと少し遅くなる感覚があったので、ここからまたタイピング。やっぱりちょうどいい。時間帯や自分の頭や体のリズムに応じて書く媒体を選択するということ。

ならば頭も身体もスローに動いている感じのする起き抜けの時間帯が、原稿用紙で小説を書いていくのに適した時間なのだろうな。小説は今原稿に書いたところまでWordに移した後、朝起き抜けに少しずつでもいいから書き進めるようにしたい。

YouTubeと執筆の兼ね合いのバランスを思いついた。千葉雅也『アメリカ紀行』に出てくる哲学者マルクス・ガブリエルが発表がとても上手いらしく、「軽快な調子で、高度な内容を圧縮してどんどんしゃべる」とのこと。これをヒントに次のようなバランスを考案。まずはnoteで発表したい概念について、しっかり文章にして自分の思考を整理し、不明点を少しでも晴らしておく。その土台を作った上で、撮影では最低限のポイントに概念を「圧縮」して「軽快」に説明したあと、2人で自由に論を展開していく。疑問に回答するときも、展開したい持論も文章にしているから話しやすい。

1つのキーワードだけで即興で喋る形式を、ジャズの奏法に倣い「ビバップ・トーク」と名づけていたが、キーワードだけだと粒度が小さすぎたので、1つの概念を紹介した上での「ビバップ・トーク」としよう。トークで細かい議論を圧縮せず実物大のデータで展開するのは、YouTubeという媒体や友人とのトーク、という枠ではサイズオーバーな気はしていた。これは前回実験してみた時の違和感がデータとなり、この案に繋げられたと思うと感慨深い。挑戦しておくことは絶対に無駄じゃないのだ。

記事を書くときは、書きたいことをなるべく一気に書く。体裁も順序も考えず、上手く書こうとする編集者意識は持たない。翌日に推敲をしていく。大体終わればそこまでの議論の思考が整理されているので、書きたいことがあったらまたばーっと書く。そしてまたほどよく推敲。完璧な推敲は最後でいいので、途中の推敲は「ほどよく」が大事だ。これは『アメリカ紀行』の中で紹介されていた「読書猿」さんのブログで千葉さんが見つけたというレヴィ=ストロース方式に着想を得て自分流にカスタマイズしたもの。とりあえずこれでやってみて、現場でフォームを整えていく。

動作をする際「美しく」とか「整える」とか言葉(トナール)を過剰に意識すると、世界全体(ナワール)が見えなくなってしまう。そういうときは一度「世界を止める」。言葉を手放し、ぼーっと世界を見ないようで見る感じ。すると言葉を意識していた時よりむしろ美しく動ける。言葉を介して意識を整えたら、今度はそれを外して自動運転させながら広い視野で見る方が理にかなっているのだろう。自動車の運転みたいに。言語(ロゴス)も自然(ピュシス)もバランスが大事。それを言語化してくれた本が真木悠介の主著『気流の鳴る音』だった。

YouTubeで甲野善紀さんの「縮地法」という概念を知る。地面を踏ん張った後に蹴って移動する通常の足運びではなく、スルッと踏ん張らずズレる感じで移動する方法のようだ。自分で納得のいくイメージは、鳩尾あたり(中丹田かな)に球があって、それが「傾く地面」を滑り登ろうとする感覚。福岡伸一さんの提唱した動的平衡の概念図「ベルクソンの孤」を参照した。武術のフォームがかなり安定しながらヌルヌル動ける感じがする。股関節も締めるといい感じ。

ここで書いた日記は、ある程度たまったら分厚い日記本にしてモノとして残していきたい。記録に残っていくと考えると「いつか参照する自分のため」「日記を面白く読んでくれる人のため」「参照されるだろうと考えると楽しく文筆ができる今の自分のため」に書ける。未来を疎外されずに考えることで、今をコンサマトリーに楽しむことができる(cf.真木悠介『時間の比較社会学』)。

病院待ちで、一度家に帰る途中、公園にふらっと寄って木の根元を歩いていた蟻たちを眺める。せっせと米粒みたいなのを運んでいるのが1匹いた。普段じっとは見ない小さな世界に目を向けるのは楽しい。時間に急かされていないと、暇が退屈でない気晴らしになりやすいので、やはり時間に追われすぎないような環境を作るために早めに行動するのが大事だと改めて気がつく。

生成子(真木悠介による「遺伝子」の呼称)は、開放系の中で表現場が広がっていくことを望むのではないだろうか。ならば、僕たちは人と繋がる何かを残していくことに喜び(エクスタシー)を感じていくだろう。最も直感的かつ直接的な方法は子孫を残すことだが、作品やパフォーマンスや人を支えることなどさまざまな方法で自分を表現していくことにも同等の喜びを感じるからこそ、人間は生成子を主人としない独立の「テレオノミー的主体」となりうるのだ。生成子と「テレオノミー的主体」としての自我の呼応により、他者を表現場とする「自己表現」を楽しむ。これが人間らしい生存戦略である(cf.真木悠介『自我の起源』)。

子供を育てることは自分を表現する活動の一つだ。そして、作品やパフォーマンス、人を支える仕事などの自己表現活動は、自分を残す生存戦略の一環である。それらは優劣なく並列する活動であり、それぞれ楽しい方法を取るのが個人にとっても全体にとっても善いはずである。

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