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自由主義社会

自由に生きられたら良いと誰もが思う。みんなが「これが自分か!」と発見をし続け、「これが自分だ」と自信を持って言える社会。それが理想の社会だと私は思っている。

しかし、現実にはそうなっていない。今は<資本主義社会>であり、世界の終わりより資本主義の終わりを想像する方が難しいと言われる。

消費社会が悪いとは思わない。新しいものを作って、ある程度の人が買って貨幣が回る。貨幣が人々の時間を楽しいものにする限りにおいて、その流動は使われてしかるべきだ。

しかし、資本主義とは、その名の通り資本を第一に考える方式である。人々が自由になるためでなく、貨幣を増やし、さらに多くのお金を流すことを目的とする。人々の自由は副次的なものである。ゆえに今、様々な不具合が生じてきているようだ。

まず名前から変えてはどうか。<自由主義社会>に。資本でなく自由を第一の目的とする社会である。

自由とは、何をしてもよい、という制約ではなく、自分を表現できていると感じている状態のことだ。サッカーは手を使ってボールを操作できないが、それを「手も使えるようにする」ことを自由とは呼ばない。手を使わない範囲の身体操作によってボールを思うままに扱うことを自由と呼ぶ。

制約があるからこそ、自分は素直に表現される。好きな制約=ルールに「乗って」、むしろそれを活かしてより遠くへ行けるようになるのが自由である。

自由を第一の目的とする社会、それこそが<自由主義社会>である。

何とかしてこれを作れないかと考えるが、それは案外シンプルなのではないだろうか。なぜなら、自分が既に自由である時、人は他者の自由を望むからだ。

心の底から、こわばりなく自分らしいことをしていると感じている時、そのような至福を多くの人に感じてもらいたいと願う。そっちの方が楽しい人間関係、豊かな文化や助け合うネットワークが実現しやすいからだ。

自分が自由を感じているなら、他者を拘束しようとはしない。

スポーツでは、相手を潰し合わなければ良いゲームにはならないが、本当に自由を感じるのは、レベルが拮抗していたり、少し格上で挑戦すれば勝てるかもしれないと思えたりするような相手とのゲームである。

自分が本当にそのスポーツを楽しめる瞬間を願うなら、相手にも存分に力を発揮してほしいと、また願うだろう。実力が拮抗して本気で戦い合うことで、自分らしさ、すなわち、自分の力が更新され、発見されるからである。

他者の自由を望まない時、私たちの心には何らかのしこりがあって、力を素直に発揮できていない。嫉妬などもこれによるものだ。

だから、他者との比較以前に、自分が楽しく目の前のことに打ち込めているかどうかを先に考えなくてはならない。

迷いなく楽しいと思っている人の多い社会の方が、互いを楽しませることができる社会だ。そっちの社会の方が楽しい。だから<資本主義社会>から<自由主義社会>への移行をなめらかに行っていきたい。

人を変えるのは大変? そう、他人を変えるのは難しい。自分を変えていくより遥かに。

何かを変えるには、その仕組みを分かっていないといけない。自分については、体験や感情や思考や知覚などで、他人より圧倒的に多くの情報を持っている。だから変えやすい。自分がどうしたら楽しいと思えるのかを、過去や未来に得る情報から見つけることが比較的容易である。

そして、自分が自由と思えれば他者の自由も願うのだから、その限りにおいて、すでに<自由主義社会> は立ち上がっているのである。

他の人は、自分の自由以上に資本を追い求めているように見えるかもしれないが、私が自由になった瞬間においては、その人たちも本来の自由を探求しようとしているように見えるだろう。というか、そうであることを知るのだ。

これにより、私の目にはすでに<自由主義社会> が到来し、社会は自由へ向かい出すのである。

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