大阪市立美術館③-地域のお宝さがし-46

所在地:〒543-00636 大阪市天王寺区茶臼山町1-82

■建設が始まる■
 関東大震災(大正12年=1923)によって、美術館の建設が頓挫しましたが、同14年に住友家の立ち退きが完了し(注1)、跡地は、慶沢園と命名された庭園、茶室などとともに市へ移管され、再び美術館建設の事業が進められることになります。

注1)坂本勝比古『日本の建築 明治大正昭和5 商都のデザイン』(三省堂、1980年)。一方、『建築と社会』1934年8月号には「大正15年末」、1936年6月号には「大正15年」とある。執筆者はどちらも富士岡重一。

■設計者■
 実施設計は、大阪市建築課の伊藤正文らが担当しました。伊藤は、大正6年早稲田大学を卒業、辰野片岡建築事務所を経て、同13年に大阪市に勤務しますので、時期的に、美術館の実施設計のために大阪市に入所したと思えなくもありません。

●インターナショナル建築会●
 伊藤は、昭和2年(1927)に上野伊三郎らとともに日本インターナショナル建築会(以下、建築会)を設立します。昭和5年当時、大阪市建築課には、伊藤や新名種夫・富士岡重一など、15名を超える会員がいました。富士岡は、昭和5年に建築課長、伊藤も同7年に主任技師になるなど、建築課の中枢を担うとともに、公共建築において、鉄・ガラス・鉄筋コンクリートを用いた造形(モダニズム)を普及させます。

●意匠●
 モダニズム建築は、無装飾で平滑な白い壁面、大きなガラス窓などによる意匠が特徴で、インターナショナルスタイルなどとも呼ばれます。その原点ともいえるバウハウス校舎(図1)が建築された8年後の昭和9年、伊藤正文が、大阪商科大学(現大阪市立大学)本館(図2、注2)を完成させます。

図1バウハウス

図1バウハウス校舎(1925~26)

図2大阪市大本館

図2大阪商科大学(現大阪市立大学)本館

 当時の大阪市建築課の力量は、例えば、建築会の客員であった川口一二(注3)が、昭和7年に大阪府に営繕課長として招かれ(注4)、営繕課をひきいて、学校・警察などを多く手がけたことからも窺えます。その校舎の一つに、昭和11年に完成した四條畷中学校(現四條畷高校)本館(図3)があります。両者は、中央部の塔、縦長の窓割り、壁面構成など類似点が多く、大阪市建築課による意匠の傾向が大阪府にも影響したと思われます。

図3現四條畷高校本館

図3四條畷中学(現四條畷高校)本館

注2)「大阪の古建築」より転載。
注3)「日本インターナショナル建築会会員」(『復刻版インターナショナル建築』、国書刊行会、2008年)
注4)『畷百年史』(大阪府立四條畷高等学校記念誌委員会、2006年)

■入選案と実施案■
●意匠の変更●
 前田健二郎の1等入選案(図4・5)と実施案(図6~8)を比較すると、入選案は募集規定に示された単線平面にほぼ準拠しており、室配置も大差がないと推察されます(注5)。

図4入選1階平面

図4入選案1階平面(下部が西面)

図5入選立面

図5入選案立面(西面)

入 選案では、南北方向の二つの棟の中央部と両端部を、東西方向の三つの棟で連結し、中庭中央部の東西方向に彫刻陳列などが配されていますが、実施案では、中庭は無くなり、1~2階吹き抜けの大展覧会室など、さらに中央部の3階に大講堂などが設けられ、規模が増大しています。

図6実施案1階平面

図6実施案1階平面

図7実施案3階平面

図7実施案3階平面

図8

図8実施案立面

 外観は、入選案の垂直線を強調した立面に対し、実施案は、中央部を本瓦葺きの屋根とし、壁面は、腰回りを花崗岩張り、1階の窓上部までを小形石目タイル張り、軒蛇腹まではリシン塗りとして、仕上材料を分けることで水平線が強調され、平滑な壁面が増えています。
外観全体の構成は似ていますが、入選案は簡略化されたゴシック様式、実施案は日本趣味を基調とした近代式(注6)で、全体の印象が大きく異なります。

注5)『建築と社会』1921年3月号に掲載された図面では文字が読めないため、室名は単線平面による。なお、図4・5は『建築と社会』1921年3月号、図6~8は、同誌1936年6月号より転載。
注6)『建築と社会』1934年8月号では「近代日本式」、1936年6月号では「日本趣味ヲ基調トセル近代式」とあり、当時の呼称の変化が窺われる。

●現在の美術館●
 紆余曲折を経た美術館ですが、竣工時の美しさは今も保たれています(図9~11)。

図9正面

図9正面

図10背面

図10背面

図11玄関ホール

図11玄関ホール

 募集規定に示された、「大阪市内高燥なる地域」「建物は西面を正面とす」のとおり、西側正面からは、リニューアルされた動物園、通天閣、新世界などが眼下に広がり(図12)、開発され、発展した当時の様子が窺われるとともに、日没時には、それらのシルエットの美しさが醸し出されます。夕日が美しい現地で西側を正面とするのは的を得たことで、このことからも、改めて、募集規定作成時に大阪市が当地を想定していたことが推察されます。

図12

図12正面から西側

■閑話休題■
 建築会に属し、モダニズムに立脚する伊藤が、外観に「日本趣味ヲ基調トセル近代式」を採用したことに興味を感じます。建築会の綱領には、「伝統的形式に拠る事を排し狭義の国民性に固執せず真正なる『ローカリティ』に根底を置く」(注7)とあります。伊藤は、伝統的な形式を排除し、ローカリティ(地域性)を追求する立場にありながらも、慶沢園を残した跡地利用と日本趣味を求める建築界の風潮などから、外観を「日本趣味」にしたと思っていましたが、そうではなく、「美術を陳列し、保管すると云ふ上から、日本の御庫風の形式が採用された」そうです(注8)。

●思わず、突っ込み!●
 審査員の片岡安は、入選案不採用の理由を、「全体を通じて美術館の内容を知らずに設計したものが多かった」と語ったそうです(注8)。しかし、募集規定で単線平面を示したのは大阪市で、市は外観重視のコンペを想定していたのは明らかです。ならば、美術館の内容を知らなかったとの責めをうけるのは、単線平面の作成者のはずです。前田健二郎は、募集規定に準拠して平面を作成し、立面を設計して1等入選したのではなかったのか。また、審査員の武田五一は、「慶澤園を大きく削る」腹案をもっていたそうです(注8)。これには、庭園を現状のまま引き渡すのが、住友家の寄付の条件ではなかったのか、と突っ込みを入れたくなります。これでは、「コンペの前健さん」(45回参照)があまりに可哀想ではないかと、憤懣やるかたなしです。でも、単線平面の作者が公にされることはないのでしょうね。

注7)前掲注4)『復刻版インターナショナル建築』
注8)児島大輔「大阪市立美術館の設計思想」

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