台湾の近代建築 建築家 松ヶ崎萬長  -地域のお宝さがし-67

■所在地:台湾新竹市
 台北市南部に位置する新竹市には、日本統治時代の新竹駅舎(図1)、新竹州自治会館(現玻璃工藝博物館)などが残されています。

図1

図1 新竹駅舎

■設計者■
 新竹駅舎は、建築家松ヶ崎萬長の設計で、大正2年(1913)に竣工し、昭和3年(1928)に増築されています。松ヶ崎は、特異な経歴を持つ建築家です。ここでは、先ず経歴を見て行くことにします。

図2

図2 松ヶ崎萬長(まつがさきつむなが)

■経歴■
 松ヶ崎萬長(安政5年[1858]生まれ、図2、注1)は、慶応3年(1867)、孝明天皇(明治天皇の父)の遺詔により一家を成し、「松崎」姓を賜りました。なお、「松ヶ崎」の表示は、読みから定着したようです。
 明治4年(1871)、ドイツへの官費留学を命ぜられ、岩倉使節団に加わります。ドイツ滞在中、当初「軍事行政」を学びますが、罹病のため修学テーマを変更し、ベルリン工科大学や建築家に就いて建築実務を学び、さらに建築参事官エンデに就いて、建築の実地研究を行ったようです。滞独中に男爵位を授爵し、明治17年12月に帰国、翌18年、宮城(皇居)の御殿や宮内省庁舎などの整備を行う「皇宮御造営事務局」に出仕します。帰国時には日本語を忘れていたそうで(注2)、日本での仕事の困難さが窺われます。

注1)岡田義治他「建築家松ヶ崎萬長の初期の経歴と青木周蔵那須別邸」               (『日本建築学会計画系論文集第514号』1998年12月)より転載。松ヶ        崎に関する事項で、断らない記述は同論文による。
注2)藤森照信『明治の東京計画』p268(岩波書店、1990年)。

●臨時建築局●
 明治政府の外交の大きな課題は、幕府が欧米と結んだ不平等条約の改正でした。明治12年、外務卿井上馨は、わが国の開花ぶりを示すために、鹿鳴館の建設と官庁街の新築を掲げます(注3)。鹿鳴館は、J.コンドル(以下コンドル)によって明治16年に完成し、同19年、官庁街新築計画を実施するための部局として、臨時建築局が創設され、松ヶ崎は初代工事部長に就任します。部下には同年代の、妻木頼黄([安政2年生まれ]、コーネル大学卒)、河合浩蔵([安政3年生まれ]、工部大学校卒)、滝大吉([文久2年=1862]同)、渡辺譲([安政2年生まれ]同)」(注4)が配されています。
 官庁街新築計画案は、当初コンドルが作成しますが、その内容に威厳性や記念性が乏しいため、外務卿井上は、ドイツ通の外務次官青木周蔵の推薦などから、威風堂々たる官庁街の実現を目指して、新興国ドイツの建築家エンデの招聘に動きます。エンデは、松ヶ崎が滞独中に建築の実地研究の指導を受けた建築家で、その交渉に松ヶ崎が関わります。
 エンデは、自身の建築事務所の共同経営者ベックマンとともに、その仕事を受諾します。さらに、ドイツの建築技術の導入のため、先述の4人の部下と職人のドイツ派遣にも松ヶ崎が支えるなど、わが国の建築技術の進展に貢献します。日本語を忘れるほど、ドイツ語に堪能な松ヶ崎の活躍ぶりが窺われます。
 ところが、官庁街の建設用地の地盤が軟弱であること、明治20年の不平等条約改正の失敗などから、官庁計画は中断され、松ヶ崎は臨時建築局を依願免職となり、官吏生活に終止符を打ち、以後は民間において建築設計の仕事に携わります。

注3)前掲注2)『明治の東京計画』p265
注4)前掲注2)『明治の東京計画』p268、4人の生年は筆者加筆。

■渡台 台湾鉄道ホテルの設計■
 松ヶ崎は、妻木のすすめにより、明治40年、台湾総督府鉄道部の「事務嘱託」として台湾に渡ります。そして、「嘱託」でありながら、台湾最初の本格的ホテルの外観を設計しています(注5)。
 最近、台湾鉄道ホテルが新聞で紹介されていました(図3)。近年は、建築に関する記事が新聞や雑誌で取り上げられることが多く、殊に「近代建築ファン」が多く、見学会に行っても驚くことがよくあります。近世・近代の建築史を専攻する筆者は、とても有難いことだと思っています。
 記事には、旅行案内に記されたホテルの紹介文に、「《・・その設備に善美を誇る欧風旅館である》。このイギリス風ホテルは鉄道部の直営」とあり、設計者として台湾総督府営繕課長野村一郎・福島克巳が掲げられています。しかし、「建築家松ヶ崎萬長の後期の経歴と作品」(注5)では、野村・福島(明治40年5月水道部に転出)に加えて、渡邊萬壽也・服部藍一郎・松ヶ崎萬長が掲げられ、「外観のデザインは萬長、内部の装飾は服部が担当した」と明記されています。また、台湾ホテルに関する座談会で、「これは先生(松ヶ崎)が独逸で学んできたスタイルで日本人離れして居ります。・・松ヶ崎さんらしいと思う。」との発言、さらに、外観の急勾配のマンサード屋根について、「松ヶ崎萬長が鉄道飯店(鉄道ホテル)にドイツ・マンサードを用いてから流行した」という、台湾の建築史家李乾朗の指摘も紹介されています。これらのことから、記事の「欧風旅館をイギリス風ホテル」とあるのは、「ドイツ風」であると思われます。ウィキペディア「松崎万長」にも、台湾鉄道ホテルは松ヶ崎の作品として紹介されています(注6)。 

図3

図3 台湾ホテルなどを紹介した産経新聞(2021年3月17日)

注5)岡田義治他「建築家松ヶ崎萬長の後期の経歴と作品」(『日本建築学             会計画系論文集第519号』1999年5月)。
注6)ただし、肖像は松ヶ崎ではなく、建築家武田五一と思われる。
 

次回は、現在の新竹駅舎などを紹介します。

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