建築家小笠原祥光の仕事③ -地域のお宝さがし-85

建築家小笠原祥光が建築事務所を開設する以前の仕事を紹介します。

■鉄道院時代■
●萬世橋駅●
 萬世橋駅は、甲武鉄道が明治22年(1889)に立川~新宿間を開通させ、その延伸のため設けられる予定でした(注1)。新駅舎は、大熊喜邦(横河工務所勤務)の設計で工事が着手されていましたが、同社が明治39年に国有化されたため、改めて明治41年に鉄道院から辰野葛西建築事務所(以下、辰野事務所)に設計が委託され(注2)、同42年8月10日起工、同44年9月18日に竣工し(注3)、翌45年4月1日、中央本線の始発駅として開業しました(注4)。
 小笠原は、この工事の「技手」として、佐伯貫一と現場監督を務めています。一方、辰野事務所の現場監理は、明治41年東京帝国大学建築学科を卒業し、辰野事務所で「意匠手伝」をしていた出浦高介です(注5)。出浦は、熱心に仕事をしたようで、「専ラ本工事ニ鞅掌セラレ・・現場ニ就キ懇切ナル指導ノ労ヲ取ラレタル」と評されています(注3)。
 駅舎の外観は、煉瓦に花崗岩を挟む、いわゆる「辰野式」の意匠で、「東京駅設計のための習作だった」という説があるほど(注6)、細部においてもドーマー窓や壁面の処理などに東京駅との類似点が見られます(図1~3)。また、開業した駅舎の前には、日露戦争における旅順港閉塞作戦で戦死した広瀬中佐・杉野兵曹長の銅像が設けられていました(図4)。

図1 萬世橋駅外観
図2 ド-マー窓
図3 壁面の処理
図4 駅舎前の銅像

 この駅舎は、大正12年(1923)の関東大震災によって倒壊し、その後、中央本線の全線開通などにより利用者が激減します。さらに、昭和11年(1936)には敷地内に「鉄道博物館」(旧)が開館、同18年営業が休止されました。戦後も復活することなく、長年閉鎖されていましたが、平成25年(2013)9月、旧萬世橋駅の遺構を利用した「マーチエキュート神田万世橋」がオープンしました(注4)。このサイトには、神田川沿いの旧万世橋駅の現状写真が掲載されています(栗原景撮影)。完成時(図5)と比較すると、よく残されているのが分かります。

図5 萬世橋駅背面

注1)ウィキペディア「国鉄万世橋駅」。なおここでは、萬世橋停車場を萬           世橋駅、中央停車場を東京駅と表示する。
注2)交通設計・駅研究グループ『駅のはなし』p74(成山堂書店、1994年)
注3)「鉄道院萬世橋停車場本屋新築工事概要」
注4)『旧「万世橋駅」のいま』
注5)伊藤ていじ『谷間の花が見えなかった時』p21(彰国社、1982)。出            浦の帝国大学の同窓生には、渡辺節・徳大寺彬麻呂らがいる。山口廣         『都市の精華』p101(三省堂、1979年)
注6)林章『東京駅はこうして誕生した』口絵「萬世橋駅」絵葉書の解説。        (ウエッジ選書、2007年) 

●東京駅●
東京駅は(図6)、明治39年に辰野事務所に設計が委託され、同43年12月に設計が完了しますが(注7)、それ以前、同41年3月25日に基礎工事が着手(注8)、大正3年に開業しました(注8)。東京駅に関しては、多くの書籍に取り上げられていて、蛇足になりそうなので、これ以上記しませんが、駅舎の設計に際し、辰野金吾はオランダのアムステル中央駅(図7、注9)をモデルにしたという噂が、当時あったようです(注5、p74)。これについては、双方ルネサンス様式で、外壁がレンガ積みである以外、「それほど似ていると私にはみえない」(注5、p75)というところかと思います。いかがでしょうか。

図6 東京駅外観
図7 アムステルダム中央駅外観

 小笠原は、萬世橋駅の監督を兼務もしくは、同駅の竣工後に東京駅の工事に参加したものと推定されます。この仕事は、鉄道院在職中の中でも特に大きな意義をもつもので、独立後の『経歴書』(注10)にも、「重要ナルモノハ東京ステーション及ホテル」と掲げています。

注7)「中央停車場建築概要」帝国鉄道協会蔵版
注8)『「東京駅」の開業と発展』
注9)ウィキペディア「アムステルダム中央駅」より転載。
注10)小笠原建築事務所『経歴書』

●攻玉社講師●
 小笠原は、鉄道院勤務のかたわら、明治41年から同44年まで攻玉社工学校講師として「建築材料」を担当しています(注10)。同校に建築科が設置されるのは大正9年ですから(注11)、土木科での授業と思われます。
 分野別に記述された小笠原の手帳が6冊あります。

図8 「建築材料」に関する記述

 同型の3冊のうちの1冊は、「建築材料」の章題で始まり、「・・此ニ建築材料ヲ記スルニ当リ左ノ如ク類別ス」(図8)として、材料の性質、種類、生産地、用途、製造法、試験、保存、市場の形態を掲げ、以下に石材、煉瓦・瓦・テラコッタ、セメント・コンクリート、金属、木材など、他の2冊には、「地形」として、地質検査や基礎の種類・地質・杭打ちなど、「石工職」として、石積みの種類・接合・各部工事などが、図・表を用いて詳細に記述されています。
 残りの3冊のうち、職人や構造などに関する手帳には、左官職・屋根葺職などの専門職人の仕事内容や鋼構造など、力学に関する手帳には、応力・梁・トラスの解法(図9)など、和様建築に関する手帳には、仏寺・神社の様式から木割りなどが記述されています。また、「History of Architecture」と付題された手帳には、建築における歴史の必要性が説かれ、主に西洋建築の様式や細部などが記述されています(図10)。

図9 トラスに関する記述
図10 オーダーに関する記述

 以上のような内容と詳細な記述から、これらの手帳は、攻玉社工学校における小笠原の講義ノートであったと考えられ、「建築材料」のほか、「建築構造」や「西洋建築史」なども担当したものと推察されます。

注11)『攻玉社百年史』所収「攻玉社百年史年表」(攻玉社学園、1975年               再版)


■住友総本店時代■
 小笠原は、大正4年2月から同10年2月より住友総本店技師として勤務し、住友家東京麻布別邸(図11)の監督を行い、同別邸が「八分通竣成した」同5年6月、住友家茶臼山本邸の洋館工事の監督に携わりました。前者は、総本店設計課日高胖、後者は同じく野口孫市・日高胖の設計です(注12)。茶臼山本邸の工事が来阪のきっかけとなったものと考えられます。この他各店部の建築工事の設計・監督などに携わっていますが、詳細は不詳です(注10)。

図11 住友家東京麻布別邸

●渡辺事務所勤務●
 大正9年10月20日には、住友総本店在職のまま渡辺節の建築事務所に在籍しています(注13)。渡辺建築事務所に籍を置いた理由は不詳ですが、『近代建築画譜』に掲載された小笠原建築事務所の経歴には、「住友系大阪北港株式会社住宅経営開始に当り、その設計監督工事を持ち建築事務所を開設」(注14)とあり、独立のための準備と推察されます。小笠原が住友を辞した大正10年2月は、住友総本店が住友合資会社に組織変更されたときで、「相当数の人が伝統ある住友の工作部」(注15)を去りましたが、小笠原もそのうちの一人と思われます。
 なお、小笠原と渡辺節については、渡辺が明治45年7月に鉄道院西部鉄道管理局に奉職(注16)したことを考慮すると、鉄道院時代に親交があったと思われます。当時、村野藤吾が同事務所に在籍しており、これが小笠原との親交のきっかけとなったようです(注17)。

注12)坂本勝比古『商都のデザイン』p106~109(三省堂、1980年)
注13)『建築協会会員住所姓名録』(1923年12月10日発行)
注14)『近代建築画譜』所収の事務所紹介欄。
注15)小西隆夫『北浜五丁目十三番地まで』p236(創元社、1991年)
注16)前掲注5)山口廣『都市の精華』p178
注17)小笠原と村野の親交は、ご子息小笠原祥介氏による。村野は大正10年           ヨーロッパから帰国後、北港住宅に居住している。

次回から、小笠原の作品をみていきます。
 


 



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