豪華客船の設計者建築家中村順平①-地域のお宝さがし-76

■日本人デザイナー採用以前■
 前回、昭和4年(1926)に竣工した「浅間丸」の1等の公室はイギリスに発注されたが、それ以外は国産で、その例として日本家屋を紹介しました。2等の公室は三菱長崎造船所が設計し、施工は大林組工務所、複数の特別客室は川島甚兵衛と大阪高島屋がそれぞれに設計・施工しています(注1)。このように、1等以外の諸室は、長崎造船所設計部や一部の業者が設計・施工し、実績を上げています。
 ところが、浅間丸などのデザインや製作を外国に発注したことに対し、国内の建築家などから参加要請があったため、海外の業者と同一条件で募ったところ、期限内に提出した業者は皆無だったそうです。とは言うものの、昭和5年頃以降には、国内の関連産業の発展などにより、外国への発注は減少したようです。

注1)『豪華客船インテリア画集』(アテネ書房、1986年)。以下、船舶に                関する記述や写真などは、注記がない場合は同書による。

■建築家中村順平■
 船舶のインテリアデザインを担った日本人建築家の嚆矢は、中村順平(図1、注2)です。

図1

図1 中村順平

注2)図1~4は、特集展示「建築家・中村順平」(大阪歴史博物館開催、             2007年5月)のパンフレットより転載。図1には年代の記載が無い               が、網戸武夫『情念の幾何学』(建築知識、1985年)に収録されてい             る同一の写真には、「レリーフ油土制作中の中村順平〈1964〉」のキ             ャプションがある。次回に掲載する履歴2によると、同年に山口銀行             の壁面彫刻の制作を行っているので、その際の写真の可能性がある。             中村に関する記述で注記が無い場合は同書による。

まず、中村の履歴(注3)をみておきましょう。

●履歴1(フランス留学まで)●
・明治20年(0)  :8月29日大阪市西区に生まれる。
・明治40年(20歳):名古屋高等工業学校建築科(注4)に入学。
・明治43年(23歳):名古屋高等工業学校卒業。曾禰・中條建築設計事務所                                       所員となる。
・大正3年(27歳):東京大正博覧会の第一会場全体の配置と各陳列館の設                                       計一切を任されて設計監理を行う。
・大正7年(31歳):北海道開道50周年記念博覧会会場の建築設計を行う。
・大正8年(32歳):如水会館建築設計並びに室内設計を行う。
・大正9年(33歳):岩崎小彌太の援助を仰ぎフランスに留学。
・大正10年(34歳):国立パリ美術院(エコール・デ・ボザール)に入学。                                       最後まで残った194人の中、外国人として異例の設計                                       実技第1席、学科2席を得て審査教授を驚かす。
・大正11年(35歳):「電気学校」のエスキス及び本設計最高賞。その他所                                         定の競技設計の入賞数を獲得して国立美術院をおえ                                          る。
・大正12年(36歳):「パリ大学、日本館」の設計を行い、この建築設計を                                          卒業設計として提出。これにより「フランス政府公                                          認建築士」の称号を与えられる。

●曾禰・中條建築事務所勤務●
 中村が、名古屋高等工業学校(以下名古屋高工)を卒業し、勤務した曾禰・中條建築事務所(以下事務所)は、曾禰達蔵(工部大学校明治12年[1879]卒業)と中條精一郎(東京帝大明治30年卒業)が、明治41年、三菱7号館の1室に開設した事務所で、戦前における最大規模の建築事務所でした。
 中村が中條と出会ったのは、名古屋高工在学中の21歳といいますから、明治41年です。中條は、仕事で名古屋に赴いた際、事務所員獲得のため、旧知の鈴木禎次(東京帝大明治29年卒業、名古屋高工建築科教授)を訪ねたのです。その際、中村は、就職の条件としてフランス留学の希望を申し出たといいます。
 入所後の事務所で、中村は多様な建築の設計を担当しますが、中でも如水会館(図2、大正8年[1919]、注5)は、高い評価を得ました。後年、建築家村野籐吾は、如水会館の造形について、ただただ感嘆のほかはなかったと語っています。

図2

図2如水会館

注5)『明治大正昭和建築写真聚覧』(文生書院、2012年)より転載。

●フランス留学●
三菱との関係 
  曾禰達蔵は、明治23年三菱社に入社し、同39年に退社、同社の建築顧問     に就任しています。また中條は、岩崎小彌太が麻布鳥居坂に新築する岩崎      邸の相談にのり、和館の設計に大江新太郎、洋館の設計に中村を推薦する      など、長期にわたり事務所と三菱の良好な関係が継続していました。
  岩崎小彌太の援助(岩崎財団奨学金)による中村のフランス留学も、配      慮があったことが窺われます。そういう点では、中村個人の努力ととも        に、多くの人脈に恵まれていたことも、留学という幸運につながったので      しょう。しかし、ヨーロッパの情勢から派遣が遅れ、大正9年に留学が決      まります(注6)。

注6)中村は、留学中に中條から毎月約300円の仕送りを受けていた。中村               が留学に出た大正9年の物価をみると、例えば、慶応義塾大学の年間             の授業料が85円、巡査の初任給は45円で、かなりの高額であることが             分かる(『値段[明治大正昭和]の風俗史』朝日新聞社、1986年)。

エコール・デ・ボザール入学
  大正10年エコール・デ・ボザール(以下ボザール)に入学後、最初のコ       ンクールの課題「南国の別荘」エスキスで第1位(図3)、「体育館」         でエスキス及び本設計で1等賞」に選ばれています。

図3

図3南国の別荘

 ボザールの教育は、基礎課程と錬磨課程の二学級制で、両課程ともに、課題はコンクール、学科は筆記と口頭試問で採点されるシステムです。

ボザール終了 
  通常、基礎課程の所定の点数を取得するのに2~4年、練磨課程の終了      には2~3年かかります。ただし、所要の点数を取得すれば、修学期間に      関係なく、終了が認められます。また、就学の年齢制限は35歳でした。
  中村がボザールに入学した年齢は34歳、修学期間は1年5ヶ月でした。      履歴の大正11年の項に、「『電気学校』のエスキス及び本設計最高賞、        その他所定の競技設計の入賞数を獲得して国立美術院をおえる」とあるの      は、通常、両課程を終了するのに4~7年かかるところを、中村は1年5      ヶ月で終了した証です。渡仏前の約10年を事務所で修行したとは言え、        その超人的な努力に敬服するしかありません。

ボザール卒業 
  しかし、「終了」は「卒業」ではありません。卒業設計を提出し、それ      による国家登録(フランス政府公認建築士)を得ないとことには、「卒         業」にはならないのです。中村は、卒業設計「日本学生会館」(図4・        5)で、「フランス政府公認建築士」の称号を得て、ボザールの卒業が認       められます。大正12年のことです。そして大正13年1月に帰国します             が、作品は春サロンで銀賞を受賞します。

図4

図4日本学生館会館背景図

図5

図5日本学生会館断面図

■閑話休題■
 ところで、1925年に創設された、「パリ国際大学都市」の一画に、「日本学生会館」が現存します。中村が、卒業設計でこの地を想定した経緯は不明ですが、創設以前の計画の段階でそれを知り、敷地を想定したことは想像されます。
 現存の「日本学生会館」は、実業家薩摩治郎八が出資し、仏人建築家の設計による和風の会館が1929年5月竣工しました(注7)。築後約50年、会館はかなり傷んでいたようで、修理中の現場を見ました(図6)。末尾にその記事を示します(図7)。

図6

図6修理中の日本学生会館

図7

図7 昭和52年当時の日本学生会館の状況

注7)「パリ国際大学都市日本館」

次回は、帰国後の中村の活動をみます。

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