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私と、みんなのために、ちゃんと怒る。

それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」

新約聖書 マルコによる福音書11章 15-17節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教学校で聖書科教員をしている、牧師です。

BTSが好きです。(もう分かったから)

BTSのメンバーはイエスさま同様(?)「地方出身者」だ、という話を以前に書きました。

その記事の中で、彼らが自らの故郷をテーマに歌った「Ma City」という曲に触れています。

↑ お世話になっている「あみに」さんの和訳動画で。

光州出身のJ-HOPE氏のソロ部分に出て来る「062-518」って何だろう、と思ったのがきっかけで、「光州事件」について考えるようになりました。ちなみに「062」は光州の市外局番で、「518」は、光州の民主化運動蜂起の日を指しています。韓国の民主化の歴史については学生の頃にざっと学んだ記憶はあったのですが、恥ずかしながら「ざっと」であって、浅い知識に過ぎませんでした。この曲と出会ってから、「ああ、あの時話を聞いたあのことか」と、遠くかすんでいた記憶が繋がってきた印象です。

以前研修で広島を訪れた際、そこで出会った人たちの中に原爆の出来事が「我がこと」として「ある」ということを感じました。「その土地の人間である」ということが「その土地の歴史を内面化して生きる者である」ということと繋がる。これは私にはあまり無い感覚でした。私が大阪というある種の都会の人間だから、というのが一因かもしれません。もちろん大阪にもそうではない人は多くいるでしょうけれど、私自身はこの広島で出会った人たちや、他の地域の人に見るような深い郷土愛や、歴史を含めて引き受けて生きる自覚のようなものをほとんど持たずにいました。

そういう意味でこの「Ma City」という曲は、私には無い熱い血潮を感じる印象的な一曲となりました。

ちょうど裁判のことがニュースになっていた辛淑玉さんの書かれた文章です。「Ma City」について取り上げておられます。その中でこんな一節が。

彼らが政治的かと問われれば、韓国の民衆にとって、生きることが政治なのだと答えたい。

「光州事件」についてもう少し知りたい、彼らが「我がこと」として誇りを持って受け継いでいるその歴史と精神を垣間見たいと思い、この夏映画「タクシー運転手」を観たり、小説『少年が来る』を読んだりしました。

映画「タクシー運転手」はずいぶん話題になっていたように思うので、ご覧になった方も多いかもしれませんね。先日こちらのnoteでも触れた映画「マルモイ」で主人公パンスを演じていたユ・ヘジン氏が出ておられて、つい「ああ、またそんな、身を挺して……!」と胸を痛めてしまいました。

『少年が来る』を読みかけている中で映画を観たので、小説で文章として読んだ「軍が市民に一方的に銃弾を浴びせる」というような情景を、まるで映像で確認するような感覚で鑑賞しました。

『少年が来る』は事件当時のことから、30年余り経った今にいたるまでの凄惨とも言える内容を、ぐっと抑えたトーンで淡々と綴ります。その出来事が人々の心身や魂に与えた大きな傷跡から目を逸らさず、祈りを込めて手を当てて悼む/痛むような小説。これもやはり、著者が事件を「我がこと」「私の物語だ」と深いところで自覚しているからこそ生まれた小説だと感じました。

アフガンのこと、香港のこと、ミャンマーのこと……。「民主化」ということについて考え、そのために身を投げ出して闘っておられる方たちのことを思います。彼らが「生きることそのもの」の中に、その闘いがある。

一方で我が国では「生きることそのもの」が脅かされているような痛ましい状況があちこちで起こっている今も、「仕方ない」「文句は言うべきじゃない」「批判ばかりしていないで自分で何とかするべき」というような、諦めと冷笑の空気を感じてしまいます。「連帯」なんていう言葉はもう辞書にも載っていないのかな、なんて思ってしまったり。

怒りという感情は忌避されがちなものです。「和を以て貴しとなす」ではないですが、「むやみに波風を立てるのは大人じゃない」という感覚は、私にもよく分かります。

でも、「本当に怒るべきこと」というのもあるんじゃないか、と思うのです。「人が人として大切にされない世の中のはおかしい」ということは、声の限り叫ぶべきなのではないか、と思うのです。

冒頭の聖句は「宮清め」と呼ばれる場面。イエスが神殿で「暴れた」という珍しい話です。神殿という、全ての人にとって神と繋がる救いの場が、一部の特権階級や金持ち、商売人によって独占状態になっていることを見て、イエスは憤りをあらわにされました。

「なんて乱暴な」と両替人たちは思ったかもしれない。けれど、彼らがやって来たこと自体が実は「多くの弱者に対する絶え間ない乱暴」だったのです。

おかしいことにはおかしいと言う。分かったような顔をして「まあみんなやってるし」「世の中そんなもんだよ」なんて絶対に言わない。「そんなの変だ!」ときちんと怒りを表明する。そうして、本当に大切なものを勝ち得るために連帯し、力を出し合う。そういう姿勢が今の私たちにも必要なのだと思います。

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