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痛いくらい、あなたのことを覚えてくれている存在があります。

見よ、わたしはあなたを
わたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある。

旧約聖書 イザヤ書 49章16節 (新共同訳)

こんにちは、くどちん、こと工藤尚子です。キリスト教学校の聖書科教員をしています。牧師です。

同僚が、サインペンで手の甲にメモしているのを見かけました。私もたまにやります。私は手のひら派です。(どっちでもいいか)

以前飛行機に乗った時、客室乗務員さんが、お客さんから飲み物か何かを頼まれて、座席番号をささっと手に書いておられるのを見かけました。忘れないように手に書く、ということは割と一般的なんでしょうかね。

手に書くと、見ようと思わなくても視界に入るので、自分に何度も言い聞かせるような効果があります。メモ用紙などと違ってどこかに置き忘れてくる心配もありません。気を付けなければいけないのは、水性ペンだとすぐ消えてしまう点です。できれば油性ペンで書いた方が良いですね。でも油性ペンで書いたメモがいつまでも消えない、というのもちょっと困ります。いずれは消える、消せると思うからこそ、私たちは手に書くことをためらわないのです。もし「牛乳、食パン、マヨネーズ」なんていう買い物メモが一生手のひらに残ってしまったら、嫌ですよね……。

「書いたものを思い通り消せる」というのは、筆記具の歴史の中では割と最近に可能になったことなのではないでしょうか。

大昔は、石板や壁に刻み付ける、傷をつける形で書き残していますよね。これだと書き直しは難しいでしょう。石板自体の劣化や破損、刻んだ文字が摩滅するリスクもあるし、持ち運びもしにくい。そういう意味で、木簡や紙に墨と筆で書くというのは、大きな前進なのだろうと思います。すると今度は、より消えにくい、時間の経過に耐えるインクが求められるようになるわけですね。そしてインクの発達の一方で、今度は「消せる」こと、「書き直せる」ことの追求も始まっていったようです。

鉛筆の発明は16世紀頃で、消しゴムの誕生はその約200年後だそうです。「消せる」歴史は、「書き残す」に比べるとかなり浅いんですね。でも歴史は浅くとも、発達の勢いはものすごいと感じます。「消せるボールペン」なんて、現代版「矛盾」みたいで、初めは驚きました。

最近はもっぱら「画面上」の文字が中心で、「手を使って、インクで書く」頻度は激減しているのではないでしょうか。パソコンやスマートフォンのディスプレイ上なら、たくさんの文字を一瞬で消したり、切り取って違う所に貼り付けたりも容易です。この記事もそうやって書いていますしね。

「書き留めること」の労力は格段に小さくなり、それに伴って「消してしまうこと」もとても簡単になりました。ペンとメモ帳が無くても、スマホに入力したり、写真機能で撮ったりすれば簡単に残せるし、残したデータがどれほど膨大になろうと、スマホそのものの重量が重くなるわけではありません。生身の私たちにとっての負荷が少ない分、気負わずいくらでも取っておけます。とても便利になりました。

これによって、逆に一つ一つの「メモリ」「記憶すること」「心に留めること」の価値が薄くなった部分もあるでしょう。「忘れたくない」「絶対に忘れない」。そんな「大切にしたい記憶」の価値が、テクノロジーの進歩によって軽くさせられている。そういう面もあるのかもしれません。

冒頭に引用したイザヤ書では、神がイスラエルの民のことを「手に書く」どころか「手に刻む」と語っています。先述の通り、「刻む」という書き残し方は「消せない」というデメリットを持つ方法です。「書くこと」が「石板や壁に刻むこと」とイコールだった時代であれば、この表現はさほど斬新なものでは無かったのかもしれません。しかし、その刻む場所が「神の手」であったというところには、やはり重みを感じます。

「神の御手」というのは、聖書の中でも頻繁に用いられ、私たちも祈りの中で使うことの多い言葉です。「神の御手」はすなわち「神の働きそのもの」を示す意味合いで用いられます。「神の御手」は「神の実体」を表すと言ってもいい。そこに神は「イスラエルの名を刻まれる」というのですね。

手に、体に文字を刻むといえば、入れ墨が思い浮かびます。私は歌舞伎鑑賞が好きですが、江戸時代には遊女が恋人の名前を入れ墨で腕に刻むという風俗が作品中に出てきます。これなどはまさに「消えない」から意味がある行為なのであって、「絶対に相手を忘れない、その相手に自分自身の命をささげる」という決意の表れです。そして「体に刻む」という行為は、単に消せないだけでなく、痛みを伴うものでもあります。

「痛みを負ってまでも」、「相手への思いを確かなものとする」。体に、手に、愛する者の名を刻むというのは、そのような二重の意味があるのだと思います。

私たちは「忘れないため」に手にメモしますが、神さまは私たちのように忘れっぽいお方ではないはずです。それなのに、全能の神が、敢えて「手に刻む」と言ってくださる。絶対にあなたのことを忘れない、と宣言してくださる。それほどまでの愛をもって人々と向き合ってくださる神の愛が表されているわけです。

人生には様々な苦しみや困難があります。その中で、「自分が忘れられてしまう」「自分の存在が顧みられない」という孤独感は、人にとっての根源的な苦しみの一つではないかと思います。反対に、どんなに苦しい時でも「自分は一人ではない」と思えたら、それは希望を見出す力になってくれるような気がするのです。

誰も味方がいないように思える時もあるかもしれません。自分には希望なんか無いんだと、暗闇の中に沈み込んでしまう日もあるかもしれません。でも、「あなたのことを決して忘れない」と、自らに痛みを引き受けつつ愛の眼差しで見守ってくださる神さまがおられることを、思い出してもらえたらと思います。

そしてその神の愛を、地上において伝えていく、実感と実体のあるものとして実践していく、そのような一人でありたいと願います。

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