見出し画像

鳩のように、ほど良く、近く。

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
新約聖書 使徒言行録 2章1-4節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員をしている、牧師です。

今日はペンテコステ、聖霊降臨日です。イースターから50日目に当たる日です。
復活したイエスが昇天し、地上に残された弟子たちが共に礼拝していたところに「聖霊」が降り、彼らが世界中に福音を伝え始めることになった。
冒頭に引用した「使徒言行録」の記述から、この出来事が「宣教の始まり、教会の誕生」として祝われています。

聖書に馴染みの無い人にとっては、「聖霊」って分かりにくいですよね。「神さま」「イエスさま」と言われると人格的なイメージが浮かびますが、「聖霊」と言われるともっと抽象的な印象を受けるようです。(「聖霊様」と呼ぶ人もいらっしゃいますが)
また日本語には「精霊」という言葉もあるんですね。これが「聖霊」と同音異義なもので、つい混同されてアニミズム的なイメージを持たれがちかもしれません。生徒さんもよく「精霊」って書いちゃいますね。
授業で説明する時には、「目には見えない神さまの力」と言ったりします。

ともあれ、今日「聖霊降臨日」はその「聖霊」が弟子たちに「降臨」したことを記念する日なわけです。
聖書には「炎のような舌が分かれ分かれ」に弟子たちの上に降ったと書かれています。このため「聖霊=炎」として、可視化したイメージで描かれることがあります。
でも実は「炎」以上に「鳩」の姿で描かれることも多いんです。

こちらはエル・グレコの描いた「聖霊降臨」。弟子たちの頭の上には炎のゆらめく姿が描かれていますが、それよりもっと高い所に、鳩が飛んでいますね。

なんで鳩? と言うと、これまた聖書の別の箇所に「聖霊が鳩のように降る」というような記述があるもので、「聖霊=鳩」というイメージで用いられるんですね。

こちらはヴェロッキオの「キリストの洗礼」。頭の上に鳩が飛んでますね。これが聖霊。

どうして聖霊を鳩で表すのか……。ノアの箱舟の話に出て来ることから、神と人を繋ぐとか、平和の象徴だとかも言われます。また聖書と関わりがなくても、純潔や素直さのシンボルのようにして使われることの多い鳩。

ここでは敢えてそういう「王道」の推測は脇に置いて、私にとっての(あるいはこれをお読みの皆さんにとっても)「鳩」のイメージを思い巡らしてみたいと思います。

「鳩」と言われたら真っ先に思い浮かべるのが、「公園でのエサやり」。
子どもの頃、近所の公園で食パンの耳とかを小さくちぎって投げては鳩にやっていた記憶が蘇ります。わらわら集まって来て、足元を埋め尽くす鳩。わざと遠くに投げてみたりして、「遊び相手」になってもらっていました。最近はエサやり禁止の所が多いと思いますが。

そういうことから、鳩は私にとって最も身近と言ってもいい鳥です。
スズメもいたけどな。スズメは小さいから、鳩にパンの耳を奪われてなかなかありつけていなかったな。わざと遠くに鳩を引き付けておいて、その隙にスズメにパンをやろうと画策したりもしたなぁ。

鳩を手に載せたという記憶はさだかではないのですが、鳩とスズメを比べると、手に載った時のちょっと持ち重りのする感触が思い浮かびます。カラスだともっと重いんだろうな。カラスは怖いし。スズメだと、軽過ぎて心もとない感じ。

カラスは「賢い(ずる賢い?)」イメージがあります。上手いことゴミを漁って食べ物をゲットしていたり。「あのデカくて鋭いくちばしで襲われたら負けるかもしれん……」というような、ちょっと対等に敵視してしまうような凄みもある。
スズメは逆で、小さくて弱そうで、守ってやらねば負けてしまいそうな、「強く生きるのだぞ…!」と応援したくなるような健気さがあります。
(全て完全に個人の感想ですが(笑))

そう思って比べてみると、鳩って「ちょうどいい」な、と思いました。サイズも圧迫感までは無い。でも頼りないほどでもない。威嚇するような強さも感じないし、かと言って弱々しいとまでは思わない。
何というか、いろんな面で「適度」で、それこそ「肩に載せた相棒」くらいにちょうどいい感じ。

聖霊が、神さまの力が、こんな身近さで、こんな心安さで、私たちと共にあるのだとしたら、それって悪くないな、と思ったのでした。
「聖霊が鷹のように降り…」だったら、ちょっとおっかないでしょう? でも「聖霊がインコのように降り…」だと、可愛らし過ぎてあんまり頼りにならない(笑)

聖書を記した人たちが持っていたイメージと、20世紀の大阪生まれの私が抱く鳩のイメージとには大きな開きがあることは百も承知の上で、「ああ、神さまがこの鳩くらいの気安さで私の身近に働きかけてくれていたら、なんかいいな」と思ったのでした。

ペンテコステの日に、そんなゆるゆるしたことを考えていたくどちんでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?