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明日への希望のために、「思い悩む」ことをひとやすみ。

「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

新約聖書 マタイによる福音書 6章34節(新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教学校の聖書科教員をしています。牧師です。

しゃわしゃわとセミが鳴き始めました。夏です。でも夕方の風はふっと心地良く、ビアガーデン日和……というような頃合いです。でも今年は無理ですよねぇ。そういえばもう長いこと「お友だちとお食事」なんてしていません。仕事の方は通常通り、むしろ通常に加えて消毒作業やら何やら気を遣うことが増えたような状況ですが、お休みの過ごし方については楽しみな予定は何もなし。予定を立てようにも立てられない。「ケ」の日が続いて、「ハレ」の日が無いのです。「うー、なんか、なんでもいいから、パーっとしたい!」なんて、うぐうぐ唸ってしまいます。どうやら巷では旅行が推奨されているそうですが、庶民の感覚からすればまだまだ難しいですよね……。

うじうじしていたら、冒頭の「思い悩むな」の聖句を思い起こしました。有名なので、ご存じの方も多いかと思います。

学校ではこの聖句に対して、「明日のことを考えないなんて、そんな無責任な」という生徒さんの反応をよくもらいます。そうだよね。中高生といえども毎日ほんと忙しくて、明日までにこの宿題、来週にはこの小テスト、月末には例の検定試験……なんていって、追い立てられがちですものね。みんな本当にお疲れさん……。

確かに、何事も先を見据えて備えておくというのは大事なことです。先のことを考えずに仕事してたらえらいことになりますよ。私なんてそうでなくてもいろいろ忘れそうになるのに。まして自分の仕事だけでなく、オットの仕事との兼ね合いで家事分担を一手に引き受けるべき日があったり、子どもの学校や習い事の提出物締切やら懇談やら行事やらが入ってきたり、そういう諸々を考えていると、「明日どころか、再来月のこと辺りまで思い悩んどるっちゅうねん!!」と盛大にツッコみたくなります。

あ、でもそういう「先々のこと」を可視化するのには、このアプリが重宝しています。

仕事と子育ての兼ね合いの中、オットとスケジュールを共有できるのが便利です。夜にかかる会議の予定を私が入力すれば向こうにもそれが見えるから、「この日は俺が早く帰ればええってことやな~」と分かってもらえます。自分のスケジュールひとつとっても管理しきれないこともあるのに、「この日ツマは会議のため夜は家にいません」と口頭やメモで伝えたって、お互いうっかり忘れちゃうんですよ。でもこのアプリを使い始めて、そういうことがほとんどなくなりました。日に何度も覗き込むスマホで、自分のスケジュールを見直すついでに相手のも確認できますし。私の方も、「この日はオットは仕事で動けないんやな、じゃあ家の方は私が都合つけなあかんな」とすり合わせができるので、家事育児分担がだいぶスムーズになっています。お薦めです。もちろん相手に見えない「自分だけ」の予定も入れられますよ。私はそこにひたすら観劇予定を入力しまくってきたのですが、この数か月そのカテゴリはすっからかんです。涙。

閑話休題。「明日のことは思い悩むな」という聖句の話です。

実はこの聖句、「考えるな」とは言っていないんですよね。あくまでも「思い悩むな」なのです。英語で言う、「Don’t worry」です。

私たちが何事かを「思い悩む」時というのは、「この先どうなるのだろう」という未来への不安や、「あの時もっとこうしていれば」という過去への後悔に心痛めていることが多いのではないでしょうか。そうして心がふさいでしまうと、「建設的に物事を考える」というのも難しくなってしまいます。

「どうすることもできない過去や未来を思い悩むのも分かるけれど、『今の自分』をもっと許してあげよう」。聖書はそのように語りかけているのかなぁと思いました。

たぶん聖書は、「思い悩む私たち」を否定してはいません。むしろ「思い悩みたくなるほどの現実に生きる私たち」をいたわってくれているのです。「明日もあなたは苦労するだろう。だから今日くらい、もう少し楽に過ごして良いよ」と。

感染者数が再び増加しているというニュースに、この問題の先の見えなさを感じて、気持ちが重くふさいでいる人は多いと思います。経済的な苦境に立たされている人も、身近な人の健康や安全を案じている人も大勢います。そこに大雨や水害のニュースまで加わって、いつ「明るい日」が来るのか、なかなか光を感じられない状況です。

能天気に「悩んだって仕方ないよね」と、悩む人を否定したり排除したりするのではなくて、「悩みだらけの私たちだけど、あなたのその苦しみは分かってるよ。だからもうそれ以上自分で自分を追い込まないで。私がそばにいるよ」と、肩を抱いてくれる人がいたら。見えないイエスさまの温かい腕を、その背中に感じられたら。そう願います。

私は私で鬱々したくなる現状ではあるけれど、イエスさまに慰めをもらいつつ、思い悩むのではなく「前向きに明日を考える」ための心の平安を、まずは求めたいと思います。そうすることが、今まさに苦しんでいる人たちの助けとなるための、知恵や力の源泉になるんじゃないかと思います。

「Don't worry」。それができたらきっと次は、みんなで「Be happy」を目指せる。そう祈りながら、今日はとりあえず家でビールを飲んで、元気を取り戻そうかな。

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