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声を上げる人たちへの讃歌

はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。

新約聖書 ヨハネによる福音書 12章24節 (新共同訳)

こんにちは。くどちん、こと工藤尚子です。キリスト教学校の聖書科教員をしている、牧師です。

検察庁法改正案(個人的には「改正」だとは思えないのですが、一般的な呼び方に倣ってこう書きます)が耳目を集めています。
「#検察庁法改正案に抗議します」やそれに類するハッシュタグが多数生まれ、また数十万~数百万に及ぶツイート、リツイートがなされ、「トレンド」にも表示されるなど、SNS上でも非常に注目されていることが伺えます。

そんな中、元検事総長を含む複数の検察OB連名による、この法案への反対を示す意見書が、昨日5月15日、法務省に提出されたと報じられました。

そもそもなぜこの法案が生まれたのか、その経緯に対する疑義から始まって、検察そのものの「負の歴史」にも恐れず触れながら、検察の存在意義をも問い直す真摯な文章を読んで、思わず胸が熱くなりました。

法案の是非を含めた内容の部分については一旦措きますが(一個人として思うところはもちろんあります)、「OB」である、つまり現役は退いておられて、「今この法案がどうにかなっても、立場上直接的な影響を大きく被ることはなさそうな人たち」が「敢えて」声を上げた、ということに心を打たれたのでした。そう、「意気に感じた」のです。

信念なくしてできない働き方、というものがあると思います。特定の職業が……というのではなく、「自分の仕事を、自分の人生の生き方に関わることとして捉えるか否か」ということです。

私は教員で、そして牧師ですが、どちらも「聖職者」と呼ばれることがあります。私は「教師であり牧師だから、自分は聖職者だ」と思ったことはありません。むしろ「思いたくない」と強く肝に銘じています。「聖職者である」というのは自称するものではなく、他者が敬意と賞賛をもって認めるものであり、神さまの目にかなって初めてそう呼ばれるべきものだと思うからです。

もっと言えば、実は私は自分のことを「教師」ともあまり言いません。「師」という敬称を自らつけたくない、生徒の皆さんが私を「師」と認めてくださって初めて私は「教師」と「呼ばれ得る(名乗り得る、ではない)」と思うからです。だから、単に教える人間という意味合いのつもりで、「教員」と名乗ります。「牧師」についても、実はあんまりその呼称で名乗りはしません。厳密に言うと私は私の属する教団で「牧師」とはいえない立場なのですが(学校が現場だから)、「キリスト教の教職者」という意味では「牧師」の語が一般的に知られているので、分かりやすさ優先でそう名乗っている……というところです。内心葛藤はあるのですが。

ただいずれにせよ、「私は聖職者ではない、師ではない」と思うのは、決して「そんなものにはなれなくていい」という開き直りからではありません。むしろ「聖職者たらん、師たらん」と志す気持ちを謙虚に持ち続けるのがほんとうだと思っています。(一向にその理想に近付けないことを、自虐クドウとしても歯痒く思っておりますが、今後も精進します)

さて、そこでこの度の検察OBの皆様についてです。
法に携わるお仕事というのも、ある意味で「聖職者」なのだと思います。人が人を裁くことはできない。そういう究極的な真理に峻厳な姿勢で対峙しつつ、それを厳かな痛みと共に胸に刻み付けておられる方たち、それが法曹だろうと想像します。
それは、単なる「職業」や「生業」を超えた「生き方」でしょう。比較するのもおこがましいですが、私も自分の職業が生き方に深く食い込んでいるという自覚を持つ者なので、かの方々も同様、いやそれ以上だろうと推察するのです。

「生き方そのもの」ですから、単に「現役を退いた」というだけでこの炎は消えません。そしてその信念の炎に焦がされて、彼らはこの度の「意見書提出」という行動に踏み切ったのでしょう。崇高だ、と感じましたし、私もまたこうでありたい、と思いました。

「囚人のジレンマ」というの裏返しのようですが、この方たちも「黙って状況を看過する」方が合理的で得策だったと思います。黙っていたところで責められるようなことはなし、声を上げればバッシングの対象にもなりかねない(悲しいかな、事実揶揄する声もあるようです)。まして意見書末尾にあるように、提出者は85歳のご高齢。程度は知らねど、お体に多少なりとも不自由もあるとのこと。お写真でも杖をお持ちの様子。そんな中で、声をかけられる人にはかけ、共に立ち上がろうと、これだけの理路整然とした意見書をまとめられたのです。

私が恩師と仰ぐ方のお一人が今やはり85歳で、手術や入院でお体に弱りを抱えつつ、それでも信念を持ってお働きを続けておられます。その恩師の姿には、やはり「聖職者」の名がふさわしいと感じます。自分がその年になり、そんな風に体に重荷を抱えていたとして、同じことができるだろうか? 私のような弱い者は、すぐに自分の形而下の苦痛に屈服させられてしまう気がしてなりません。

「私の損得」を優先した時、私たちは「囚人のジレンマ」に陥ります。でも、「自分」という小さな枠を超えた、「私たちにとっての善いもの」を志すことができたら、私たちの振る舞いは浅はかな合理性を超えていきます。生き方が変わる、信念が生まれるのです。

麦粒が、「自分」という小さな体、小さな枠組みの中で、「自分」を損なわないことだけを必死になって求めていたら、それはどこまでいっても「一粒」のままです。でも、その麦粒がまるで己自身を投げ出すかのように「地に落ちて死んだ」時、それは単なる「一粒」であることを超えて「種」となり、やがて豊かな実りに繋がります。

「自分」やその身内だけの損得や利害に留まる生き方は、儚いものです。「一粒」である自分自身への囚われから解放され、「種」としてこの身を投げ出すような生き方を志す者でありたいし、そのような人への敬意と称賛を惜しまず表明していきたいと思い、記しました。

誠実な人たちがどうか御心にかなって祝されますように。

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